太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『ジョーズ』感想〜4K HDR で観返すジョーズは現代のコロナ行政映画だった!?

ジョーズ (字幕版)

ジョーズ』を 4K HDR Dolby ATOMS で観る

アカデミー賞受賞監督スティーヴン・スピルバーグ演出の『JAWS/ジョーズ』は、当時サスペンス映画に驚異的な新風を吹き込み、映画鑑賞そのものを変えてしまったと大きな話題を呼んだ作品だ。平和な海水浴場のアミティに人食いザメの事故が続々と発生。アミティの警察署長(ロイ・シャイダー)、若い海洋学者(リチャード・ドレイファス)と白髪まじりのサメ漁師(ロバート・ショウ)がこの巨大人食いザメ退治に乗り出す。サスペンスをさらに色づける有名なスコアともども、近代映画の歴史の中でアドベンチャー作品の大傑作として残る作品だ。

 『ジョーズ』といえば子供の頃に木曜洋画劇場などで楽しみにしていた定番映画だったのだけど、思い出されるのは断片断片の映像や特徴的な音楽だけであった。これは『ジョーズ』に限らず、『ターミネーター』や『ランボー』なども同じで、映像や音楽の刺激ばかりを求めてストーリーを理解する物心がなかったのだろう。

 そんなわけで、このような作品を観返そうと思っていたら『ジョーズ』が 4K HDR Dolby ATOMS 対応で配信されたので改めて鑑賞したのだけど、奇しくも新型コロナウィルスによって変わってしまった現代だからこそ観るべき映画なのではないかと思えてきた。

海自体に感じる恐怖心こそが物語の鍵

 初っ端から例のテーマソングにサメ視点。ビーチパーティからヒッピーっぽい男女が抜け出して女子だけが服を脱いで海に飛び込む。スタイリッシュながらも『ジェイソン』などの恐怖映画のお約束を忠実に守る序盤。

 惨劇に最後まで生き延びる「ファイナルガール」の反対語として、最初に殺されるイチャイチャセクシー担当を「ファーストカップル」と呼称すべきなのではないかとも思うけれど『ジョーズ』の場合は、男子が飛び込まないで助かる。

 この男子は泳げないから海に入るのを躊躇していたのだろうと推測されるが、主人公のブロディ署長にも泳げないという設定があり、海に入ること自体に根源的な恐怖を感じる人々が演出のアクセントになっている。それが助かる理由であり、助けにいけない理由であり、それでも船に乗る勇気を描き出す。

経済リスクと事故リスクの天秤と正常性バイアス

 舞台はアメリ東海岸にある小さな島であるアミティ島。海水浴を目玉とした観光によって生計を立てている家が大半。ブロディ署長はアミティ島にニューヨークから赴任してきた直後の「よそもの」である。「島の人間になるのは何年経っても無理」などと閉鎖的な台詞も出てくる。

 そういう意味では『ミッドサマー』的というか、あくまで「島の論理」が優先されるもどかしさがある一方で、人食いザメの存在を認めてしまえば海開きが長期的にできなくなる可能性があり、経済的困窮によって人が死ぬリアルもある。

 結局のところで島の論理に流されてスクリュー事故だったと言い張ったり、関係のないサメ退治で解決したことにしたがるのだけど、このあたりは現代のコロナ行政にも通じるものがある。コロナ隠しならぬサメ隠しとやった感。

 様々な利害関係や瑣末な陳情を引き受けて本質的な解決が遠のく政治映画の側面がありながら、嫌な予感はあるし、偽陽性的な解決に安心してもいないのに十分な対処が打てないまま妥協を強いられる不安感にこそリアルな恐怖がある。サメの前に利害関係が敵になってしまうのにサメは忖度してくれない。

人間にとって不可視な人食いサメの間接的出現

 海中にいるサメは海上から見ることができず「いなくなった」ことの判断は非常に難しく、だからこそ海岸閉鎖の長期化に繋がりかねない。その一方でさめの背ビレであったり、船に乗ってから打ち込む樽であったり、直接的な姿を見せなくても、そこにいることを雄弁に語る間接的な装置がある。

海で撮影された最初の大型映画であり、その結果、機械仕掛けのサメは頻繁に故障するなど、製作中に様々な問題に見舞われ、予算とスケジュールを大幅に超過した作品であった。しかし、スピルバーグはサメの模型が使えないがゆえにサメを直接見せない形に切り替え、サスペンス性を高めた。

 実際的には、サメの模型に故障が多かったからとのことなのだけど、サメの存在を間接的な表現にすることで「背ビレっぽく見えていたのはサメではなかった」というスカしで脱力させたところで、本物が出てくるなどの恐怖演出にも繋がる。音楽を鳴らさずにいきなり顔を出すパターンまであるのもズルい。

 ところで、「ジョーズ」とは顎のことだ。作中ではあくまで「ホオジロザメ」であって、登場人物から「ジョーズ」と呼ばれることはなく、もちろん自称することもない。そういう意味では『プレデター』と同じ構造にあり、奇しくもジョーズは「捕食者」かつ姿を消せたり生物電気を感知できたりする特性まで似ているし、ジャングルも海も生活を拒む非日常空間だ。逆に言えばプレデターへの恐怖はサメに近しいのだと気付く。

船の上のブロマンスと板子一枚下の地獄

 優柔不断で泳げない署長、小柄で若い海洋学者、屈強で変人なサメ漁師。ぶつかりながらも、オルカ号に乗り合わせてサメを狩ろうとする。サメの天敵と言えばシャチ(オルカ)だ。署長は自分が泳げないからこそ助けられなかった罪悪感から恐怖心を乗り越えて船に乗る。

 特に序盤は写真を撮っていたり、樽に発信機をつけようとしてギリギリの発射になったり、狩り自体を楽しんでいるまである。モヤイ結びのレッスンも良い。自分達の傷を見せあったり、戦争体験の話の中で絆を深めていくのはいかにもブロマンスだ。解像度や色調が良くなったことで海や船の美しさが際立つ。

 戦争中の秘密作戦でSOSができずに人が死んでいく記憶は、観光に打撃を与えかねない秘密作戦だから満足な閉鎖や警備を行えない現代の状況ともリンクする。さらには獲物を見つけたサメ漁師がカタを自分でつけるために、妻から受信した無線機を破壊するのもSOSの否定となる。それよりも、ブロマンス特有の女性排除を感じたりもするけれど。

 しかしながら、船の板子一枚下には地獄がある。サメがいようがいまいが戦争中のように海に投げ出されるのは大きなリスクだ。船下は容易に破壊されそうになるし、銛を刺してロープで船に固定しようとしても船ごと転覆しそうになる。サメ側がやや優勢程度の戦力差であっても船が壊れたり、海に落ちたら終わりという点で人間側は圧倒的に不利だ。ましてや署長は泳げない。

ジョーズ』はコロナ映画だった!?

 船板を介してサメの攻撃をガードしたり、水中檻に入っておびき寄せながら毒薬を注射しようとする下りなども、現代となってはアクリルボードやワクチン接種を想起する。自粛警察(本職も警察)が煙たがれる観光島におけるリスクに関する政治的な駆け引きや正常性バイアスによる被害拡大などを含めて、極めて現代の新型コロナウィルス対策行政にまつわる諸々に通じる。

 最終的には、それ!?っていう武器が決定打になったり、だったら檻に入って毒薬のくだりはなんだったのかと思ったりもするけれど、色々試して偶然発見したプランCで大きな犠牲を払いつつ逆転するのも映画らしい。そんなわけで、4K HDR で観返すジョーズは現代のコロナ行政映画としても面白い。現実のウィルスは爆発四散してくれないのが残念だけど。