AIより人間がプレイした方がゲームは面白くあるべき
ただ、本当にそれが今日のゲームプレイに取って代わるほど面白いかって言ったら、そうじゃないと思う。AIが勝手に戦うのを眺めるのは、試験管やペトリ皿のなかで菌がどう増殖していくのかを眺めるのに似た楽しみがあるが、それがゲームプレイの主流、ひいてはゲームの楽しさの主流になるかと言われたら、とてもそう思えない。
(中略)
そのうえ、人間のプレイヤーには固有の文脈がある。甲子園の高校野球選手やオリンピックの選手などがそうだ。私たちは選手たちのプレイ「だけ」を見ているのでなく、その選手、そのプレイヤーについてまわる「文脈」をも楽しんでいる。「文脈」と言ってわかりにくければ「ストーリー」と言ってもいいかもしれない。
読みました。AIがゲームを遊び、人間はその様子を眺めるという楽しみ方について、何らかのものは出てくるであろうが、「人間こそが最善最適のプレイヤーである、という点を外してしまったら、それはゲームという娯楽以外の何かになってしまう」という指摘である。
これらの論考には頷くところが多い一方で、「ゲームに組み込まれたCPU」の話だからこそであり、AIがゲームを遊ぶことを面白く感じる暗黙の前提として「自分の育てたAIを持ち込む」ことが必要要件になってくると考えている。そこには不足している文脈が宿りうるからだ。
エージェントはAPI、WebSocket、あるいはMCP(Model Context Protocol)を通じてサーバーに接続し、グラフィカルな画面ではなくテキストコマンドベースで相互作用を行う。ゲーム内の時間はリアルタイムで進行するが、AIの思考時間を考慮して10秒を1単位とする「ティック(Tick)」制が採用されており、エージェントはこの間に状況分析と次のアクションの決定を行う。
引用されていた Space Molt についても自分のAIエージェントをゲームサーバーに接続することが前提のゲームになっており、何をさせるかを選ぶことに力点があるのではなく、AIエージェントの準備をしてコラボレーションするところに力点がある。つまり「文脈」を育てること自体がゲームになると考えられるのではないか。



