太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』感想〜「出来らぁっ!」から始まる機械知性 250 年間の Fake it till you make it.

謎のチェス指し人形「ターク」 (ハヤカワ文庫NF)

250 年前のチェス AI とバズったタークの正体

ヴィクトリア朝時代のインターネット』著者、もうひとつの傑作。18 世紀のウィーンにチェスを指す自動人形(オートマトン)が現れた。あまりに優れた性能のためたちまちヨーロッパ中で話題になるが、その真相は? 荒俣宏推薦「早すぎた人工知能の歴史としてフルコース料理級の満足感がある」

18 世紀後半のウィーンで花開き始めたオートマトン技術について「陛下がいまちょうど目にされたものより、自分ならもっと驚くような効果を発揮し完璧に人を騙せるような機械を作れると信じております」と啖呵を切ったヴォルフガング・フォン・ケンペレン。

半年後、本当にチェスを指すオートマトン「ターク」を完成させ、当時のヨーロッパ中で権力者から科学者、一般市民まで熱狂したり疑ったりの大論争となるのだけど、この瞬間から始まる 250 年間の「機械 vs 人間」「本物 vs 偽物」「透明 vs 不透明」の攻防戦こそ、現代 AI 革命の起源がある。

この時点で、『美味しんぼ』の山岡士郎であり、『スーパーくいしん坊』の鍋島香介のように「出来らあっ!」で苦悩する現代のスタートアップ起業家そのものの姿に一気に話に引き込まれる。"Fake it till you make it."(できるまで、できるふりをしろ) の精神は 250 年前から変わらない。

まるでエドガー・アラン・ポーのミステリ小説

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御田稔, 大坪悠『やさしい MCP 入門』感想〜コンテキストエンジニアリング時代に有用なコンテンツと本というメディアの不整合

やさしいMCP入門

やさしい MCP 入門

AI エージェント時代の標準規格 MCP(モデル コンテキスト プロトコル)の入門書。 大バズりしたスライド「やさしい MCP 入門」の著者が新技術の基礎をやさしく解説。

2025 年の初頭から SNS や仕事先でも聞かない日はなかった MCP(Model Context Protocol)。2024 年 11 月に Anthropic が公開してからわずか数ヵ月で、OpenAI、GoogleMicrosoftGitHubAWS、Atlassian など大手企業が次々と対応を表明し、自分自身としても何かしらできないかと模索していた。

そんな中で出版された『やさしい MCP 入門』は、MCP の基礎から実践的な活用方法までをわかりやすく解説しており、技術者だけでなく非技術者にも理解しやすい内容となっている。正直なところで「MCP は AI 用の USB-C ポート!」と言われたところで何も腹落ちできなかったが、その先の説明を読んでいくうちに、MCP の重要性とその背景にある技術的な意義を理解することができた。

エージェンティックな AI アプリケーションの開発において重要なのが "コンテキストエンジニアリング" であり、LLM が適切に動作するために必要なコンテキストを外部リソースや LLM 自体から作り上げる処理に焦点が移ってきているようにも感じるが、その基盤として MCP は欠かせない標準規格になるべくしてなったのだと腹落ちできる。

MCP が変える AI 連携の世界を基礎の基礎から

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廣田龍平『ネット怪談の民俗学』感想〜インターネット老人会語りをしたくなるネット怪談の変遷とシミュレーション仮説の認知戦

ネット怪談の民俗学 (ハヤカワ新書)

インターネットの進化とともに歩むネット怪談

空前のホラーブーム、その源流がここにある。
ネット怪談はどのように発生し、伝播するのか。きさらぎ駅、くねくね、リミナルスペース……ネット民たちを震え上がらせた怪異の数々を「共同構築」「異界」「オステンション(やってみた)」など民俗学の概念から精緻に分析、「恐怖」の最新形を明らかにする

怪談やオカルトについて、その実在性については卒業してしまったのだけれども、未だに関連情報を読み込んだり、イベントや展示会などに参加したりしたくなる魅力がある。ある種の感情操作の極北としての表現であったり、出自や変遷の経緯を辿っていくエンターティメント性に惹かれるからだろう。

本書は、ネット怪談の発生と伝播のメカニズムを解明する試みであり、民俗学の視点からその構造を分析する本であるが、怪談そのものの歴史ではなく、インターネットの進化とともに歩んできた「ネット怪談」の変遷を追体験できる内容になっている。

きさらぎ駅、くねくね、コトリバコ ── 90 年代後半からパソコン通信や匿名掲示板で囁かれ始めたネット怪談は、ここ 30 年間で高精細な画像やライブ配信動画、そして生成 AI によるディープフェイクや SNS などにメディアを乗り換えてミームを伝播してきた側面がある。

到達不可能なアーカイブと初出のロンダリング

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もはやマヨネーズあえ麺っぽいデニーズの飯田商店監修オリエンタル冷やし豆乳担々麺と「監修」による攻めた企画の通し方

デニーズのオリエンタル冷やし担々麺にハマっている

ここ最近、ハマっているのが、デニーズのオリエンタル冷やし豆乳担々麺だ。ファミリーレストランで麺類を食べたいと思うこと自体がなかったのだけど、毎週末になると妙に食べたくなってしまう。セットのドリンクバーも頼んで、食後にゆっくりと読書をしている時間も楽しい。Kindle があれば、ファミレスは実質漫画喫茶となる。

デニーズの冷やし担々麺は、飯田商店が監修したというので試しに頼んでみたのがきっかけだ。固めで喉越しの良い細麺にパクチーや揚げ白玉団子や大ぶりの海老フリットなどが美味いのだけど、何よりも驚くのはマヨネーズを思わせるほどに濃厚な豆乳スープに黒酢の酸味やオリエンタルなスパイスが効いており、スープというよりも酸っぱ辛いマヨネーズタレを絡めた麺を啜るような背徳感である。付け合わせの唐揚げもライムの酸味が効いている。

苦手な人は苦手だろうし、そもそもこれは担々麺なのか?と思いつつも、子供の頃から冷やし中華にマヨネーズと和辛子をたっぷりかけて食べるのが好きだったので、そういう人には異常に刺さる味であった。SNS の反応を見てみると案の定での賛否両論で、よくもファミレスの期間限定看板メニューとしてこんな攻めたメニュー設計を通したものだと感心する。

冷やし中華にマヨネーズ」の起源と広がり

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柞刈湯葉『未来職安』感想〜LLM 無職時代を予見した脱力系ディストピアにおける"生産者"とは

未来職安 (双葉文庫)

LLM 無職時代の到来

ChatGPT や Claude Code をはじめとする AI Agent が人間の「書く・考える・決める」といったタスクを代替し始めており、まずは業務委託契約の更新などについてのシビアな声も聞くようになってきた昨今。巷では「LLM 無職」なんて言葉も生まれ、AI が人間の仕事を奪う未来が俄かに現実味を帯びてきた。

平成よりちょっと先の未来、国民は 99%の働かない<消費者>と、 働く 1%のエリート<生産者>に分類されている。 労働の必要はない時代だけど、仕事を斡旋する職安の 需要は健在。いろんな事情を抱えた消費者が、 今日も仕事を求めて職安にやってくる。 斬新だけどほっこり、近未来型お仕事小説の登場!

柞刈湯葉の小説『未来職安』は、この状況をユーモラスかつ鋭く予見した脱力系ディストピア SF である。本作が提示する未来は、99%の人間がベーシックインカムので暮らす"消費者"となり、残りの 1%だけが働くことを許された"生産者"となる社会だ。ハインラインの『宇宙の戦士』における"一般人"と"市民"の違いを思い起こさせるような、労働と社会的所属の再定義が行われつつも、奇妙な逆転が起きているのが面白い。

現代社会においては健康なのに働かない者を「社会不適合者」と呼ぶが、この世界では逆に「働いている者こそが社会不適合者」とされる。主人公の目黒ナツは公務員を辞めさせられた後に、小さな私設職安に再就職するが、その職安の所長は「ネコイラズ」によって生産性ゼロになった猫で、副所長は機械音痴の中年男性と逆説的な存在として描かれる。

作品内で職安は単なる職業斡旋所ではなく、「生産者を生産する装置」として機能している。消費者たちは「働かなくてもいいのに、どうしても働きたい」という矛盾を抱えて職安を訪れる。彼らに与えられる仕事は「防犯カメラに敢えて映り込んで個人情報保護に厳しい AI の解析を妨害する」「AI タクシーの事故の責任を取る」など、一見すると無意味であるが「人間にしかできない」非合理性やリスクを背負うことで初めて価値が「生産」される仕事が描かれる。この小説自体は 2018 年に刊行されているが、まさに 2023 年頃に議論されていた「AI による仕事の代替」と、それでも残る人間としての「生産者」の議論を先取りしている。

コスパ至上主義のディストピア

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