
平成レトロファウンドフッテージ
2026年4月24日公開、NOTHING NEW製作の中編ホラー『沢田美由紀のガマランドにお邪魔します』を観た。監督の西井紘輝氏は、現代のニュースを1980〜90年代のテレビ番組フォーマットで再制作するYouTubeチャンネル「フィルムエストTV」の主宰で、2024年には「友近サスペンス劇場」を手がけた人物だ。アナクロな映像再現を専門とするクリエイターが、その技術をモキュメンタリーホラー映画に移植した作品である。
そう言ってしまえば「手段の目的化」も感じてしまうが、1993年(平成5年)という平成レトロな舞台設定にはいくつかの必然性もある。例えば、携帯電話の普及は1994年の端末買取制が出てきてからだし、バブル崩壊直後で経済的余裕はないが、中小企業にも週休二日制が普及し始めた頃。「土日のどっちも休めたから旅行に行こう」なんてことに特別感を感じられるのも時代性によるものだ。
道に迷えば地図帳でナビをし、移動中の時間はカセットテープで音楽を流す。2010年(平成22年)の原宿の映像で誰も歩きスマホをしていないことが話題になっていたが、1993年はそこからさらに17年前である。
平成22年 八月の原宿 最後の金曜日 pic.twitter.com/53B551ctZW
— Lyle (Hiroshi) Saxon (@lylehsaxon) 2026年4月30日
ガマランドで孤立した美由紀が助けを求められない理由は演出上の制約だけではなく、知らない場所にひとりでいたら誰にも連絡できない、現在地も分からない、来た道も分からず、誰かが戻ってくるまで暇つぶしもできない当時ならではの不安と恐怖がある。
映画は60分の短尺でアナログホラーなファウンドフッテージとしてカップルの清水康平と沢田美由紀が記録し、"清水康平が編集したVHSテープ"という体裁を取る。できることの少ない民生用テロッパーによるおじさん構文(=当時の若者表現)の焼き込みや当時の民生用カメラでできる範囲のズームや激しい手ブレなどホームビデオ映像としてのチープさや違和感が不安を煽る。
本物の廃墟と虚構の人物がアナログ媒体に映る違和感
主な舞台は茨城県つくば市にある実在の遊園地「ガマランド」だ。筑波山の麓、1971年開業の観光施設で、江戸時代から続く「ガマの油売り」伝説をテーマにした巨大ガマガエル像や洞窟が特徴。2020年のコロナ禍で休業・廃墟化し、心霊スポットとして注目されるようになった。
本作は一切セットを作らず実際の廃墟ガマランドでロケを行っていることで、人工的に再現された廃墟ではなく、本物の寂れた遊園地の空気が映像に乗っている。VHSのノイズ、テロップの書体、家庭用ビデオカメラの色乗りという平成初期の質感と廃墟そのものの物質感が重なる実在感がある。
その一方で、フィルムエストTVのにしい氏自らが演じる清水康平は、古臭い眼鏡でやや甲高い声で喋る造形で、話し方や所作から奇妙な懐かしさを感じさせつつ、どこか誇張しすぎたモノマネのような違和感もある。個人的には蛙亭の中野氏を想起したりもした。ガマランドと蛙という強引な連想もある。
さらには園長役を『地面師たち』で有名になった五頭岳夫が演じており、この時点でファウンドフッテージのお約束にあった「本当に発見されたビデオかも」というメタフィクションは解体されている。
もちろんフェイクドキュメンタリーとしての脚本や演出が前提にあるが、手持ちカメラやスマートフォンで撮られた映像や実在の心霊ディレクターやアシスタント達によるアドリブや言い間違えや失敗などもそのまま映されているかのようなざらつき感が奇妙なリアルさを生んでいる。
同じモキュメンタリーの心霊マスターテープや白石晃士作品との違いは、アドリブのリアルさではなくテクスチャの設計で恐怖を作っているところだ。AI生成の歌声「あのね、笑って」も同様で、人間の声を材料に人間でないものが歌うという違和感に遅れて気づかれる。
| カテゴリ | 真正性 | 構成要素 | 特徴・必然性 |
|---|---|---|---|
| ロケーション | true | 実在のガマランド | 1971年開業、現在は廃墟化した茨城県の観光施設。一切セットを組まない「本物の物質感」と「場所の記憶」。 |
| 被写体 | false | フェイクの人物や歌声 | いかにも「当時いそう」なキャラクター造形や音楽。儀式の変数として配置された記号的な存在。 |
| 撮影機材 | true | 本物のレトロ機材 | VHS特有のノイズ、色乗り、解像度の低さ。1993年という「携帯電話普及前夜」が生む物理的な孤立のリアリティ。 |
| 編集技術 | false | フェイクの編集 | 西井監督による徹底した再現。当時の番組文法やテロップを「恐怖を溶け込ませるための手段」として再構築。 |
つまり、本作の奇妙な味わいは本物のロケーションに、フェイクの人物や音楽が映り込み、本物のレトロビデオカメラで撮られた素材を、フェイクの編集技術で再構築しているところにある。
「_____のガマランドにお邪魔します」
(以降、ネタバレ)
プロットを明かすと、息子がガマランドにおいてパラレルワールドに取り込まれて行方不明になり、代わりの生贄を捧げれば息子を取り戻せると考えて、交際相手の美由紀を儀式の道具として連れ込んでいた。「デートに見えたものが最初から罠だった」という反転が、観終わった後に遡及してくる。
そして康平の部屋に並ぶVHSテープのラベルには「_____のガマランドにお邪魔します」と書かれており、沢田美由紀は何人目かの変数に過ぎなかったことがわかる。上映されるのは沢田美由紀の一回性であるが、ある種のループものとしての構造により、観客を次の名前が入った「_____のガマランドにお邪魔します」の共犯者に誘う。
それでも、VHSに録画されたような映像にこだわる理由。それは、私にとって〝全く新しい世界〟だったからです。
私が中学生、そして高校生のころにドはまってしまったもの…それが80~90年代のテレビ番組でした。
知らないタレント同士が
知らない話題で盛り上がっていたり、見たことないリポーターが
番組内で熱狂的な支持を得ていたり、衝撃的なロケや演出を
平然とやってのけていたり、今では当たり前とされる情報が
眉唾物として取り上げられていたり…そんなパラレルワールドのような世界につきものだったのが、あの〝VHS感〟だったのです。
手の込んだフェイクレトロ映像をフェイクと分かりながらも少人数のミニシアターで鑑賞し、帰り道に各人が各人の次に撮られるであろう『_____のガマランドにお邪魔します』を妄想することで、大枠は同じだがディテールが異なるパラレルワールドがいくつも立ち上がる。
例えば「ニンゲン」は想像図として明記されていた画像について転載が重ねられる過程で、「CG」「想像図」といったメタ情報が除去され、「実在の証拠」として流通し始めていった側面がある。これはアメリカで流通したスレンダーマンにおいても同様であり、最初は「ネタ画像」だったものが、転載の過程で「創作」であるという情報が欠落したまま流通することで実在性を獲得している。
AIや映像技術によってフェイクは精巧になり、そのソースすらもSNSやWebサイトとして捏造できうる時代だからこそ、実在のロケーションに嘘を嘘とパフォーマティブに表現することで逆説的に現実とは少しズレたパラレルワールドを作りだし、パラレルワールドに取り込まれてしまった息子を奪還しようとする試み。これは平成レトロ映像でホラー映画を撮るという「手段の目的化」が先行しつつも、本作そのものが描いていた「儀式」との連環になっていて面白いと感じた。

