太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『アルプススタンドのはしの方』感想〜「進研ゼミの漫画」のようにいかなかった送りバントの青春と腹から声を出す瞬間への羨望

アルプススタンドのはしの方

アルプススタンドのはしの方

高校野球夏の甲子園大会一回戦。
夢の舞台でスポットライトを浴びている選手たちを観客席の端っこで見つめる冴えない4人。
夢破れた演劇部員・安田と田宮、遅れてやってきた元野球部・藤野、帰宅部の成績優秀女子・宮下。
安田と田宮はお互い妙に気を使っており、宮下はテストで吹奏楽部部長・久住に学年一位を明け渡してしまったばかりだ。
藤野は野球に未練があるのかふてくされながらもグラウンドの戦況を見守る。
「しょうがない」と最初から諦めていた4人だったが、それぞれの想いが交差し、先の読めない試合展開と共にいつしか熱を帯びていき...。

アルプススタンドのはしの方

アルプススタンドのはしの方

  • 城定秀夫
  • 日本映画
  • ¥2037

 第63回全国高等学校演劇大会で最優秀賞を受賞した演劇の城定秀夫による映画化。ほとんどが野球の応援席での演劇的な台詞や人物配置で話が進んでいく青春ドラマ。野球自体のシーンは一切画面に出てこない一方で、アルプススタンドの中央にいる吹奏楽部や応援団とアルプススタンドのはしの方で会話をしている男女グループの対比と相互影響が描き出される。

 応援しているのは甲子園大会一回戦から応援に動員がかかっている埼玉の高校。あまり興味のないスポーツの応援観戦は退屈なものだ。僕自身も部活の応援に駆り出されて「負ければ早く帰れるのに」というサイコパスな感情を抱いたことを思い出したりもしたが、斜に構えながらも「はしの方」でしていた会話は残っている。

会話劇から浮かび上がってくる人間関係の解像度

 劇中セリフにもある通り、学生時代には部活に勉強に恋愛という「進研ゼミの漫画で描かれる3大要素」をバランスよく満たすべきだと提示される。それでいて、それぞれのキャラクターは2年目の演劇部の地区ブロック大会に出られなかった安田と田宮、野球部をやめてきた藤野。帰宅部なのにテストで1位を取られてしまった宮下。ある人物たちは恋にすら敗れている。

 その対比として完璧超人にも見えてくる野球部の園田や吹奏楽部の久住やその取り巻きがグラウンドやアルプススタンドの中央にいる教室内カーストの再現。かと言って彼や彼女らが「本当に嫌なやつなのか?」という点がカタルシスにつながるフックとなる。それは、空回りを続けているように見える先生もそうだ。

これは『ピクニック』の中にある「読者への挑戦」とも思える文章であるが、二周目になると意味が分かることが多い構造は『こちらあみ子』にも現れる。逆に言えば一周目の読者はあみ子よりもほんの少しだけ周りが見えていただけで、相対的に狭い環世界の中に囚われていた自分自身の認知の狭さを客観視できる仕掛けがあるのだ。

 「迷宮入り」「黒豆茶」「おーいお茶」「茶道部」「黒豆茶以外の値段」「腹から声を出す」「トレイントレイン」「矢野くん」。文脈が共有されている同士だからこそ成立する会話やカットイン映像を文脈が分からないまま受け取って推測していく楽しさと、会話劇によって解像度が上がってから反芻する楽しさの同居。

 もちろん、会話や伝聞によって作られた文脈が「正しい」のかは別問題だけど、ひとりでぐるぐると思い込んで強化された敵視や罪悪感が寛解していく効果もある。「アルプススタンドのはしの方」のさらに「はしの方」にいるのが観客である自分自身であり、マックで隣の女子高生が話している会話の回路が繋がるような気持ちよさ。

送りバントとしての青春の肯定

 これは高校演劇あるあるなのだそうなのだけど、「全国高等学校演劇大会」の予選は前年度に行われているため3年生はブロック大会で勝ち残ったとしても全国大会には出られないという構造にある。

なお、全国大会は上述のように、次年度の7月下旬から8月上旬にかけて開催される。そのため、他の体育競技や文化部大会とは異なり、ブロック大会に出場した3年生は、必然的に全国大会には出場できないことになる。

 よって全国大会に出られる最後のチャンスは2年生の予選にあるのだけど、それが「しょうがない」理由で不戦敗になってしまったら。まだまだ3年生としての演劇を続けることもできるがモチベーションを維持し続けるのが難しい人も出てくる。自分自身も言われた「しょうがない」という言葉が何度も出てくるのが、なんとも厳しい。甲子園よりもさらに厳しいのだ。

 それが、会話劇と試合の展開を通じて「送りバント」を肯定しはじめる流れは青春時代だからこそのやさぐれと手のひら返しでこそばゆい感傷を呼び起こす。「送りバント」の構造はそれぞれの登場人物たちに現れるのだけど、送りバントができる時点でフィールドに立てているし、結果に寄与している。

 例えば『ドラゴンクエストⅤ』は勇者にはなれなかった主人公が、父親パパスからのバトンを子供に渡していく「送りバント」の物語なのだけど、それに近しい感動が高校生活の3年間と高校演劇の大会構造がはまるからこその早回しで眼前に現れる。

期間限定の青春ドラマだからこその煌めきと腹から声を出す瞬間

 やさぐれ感やその手のひら返しで現れる「腹から声を出す」瞬間は青春ドラマだからこその煌めきである。情緒の不安定さこそが青春であり、大人の目線で「そんなことで!?」って俯瞰でも見ても仕方がない。それは小野莉奈と西本まりんの『中学聖日記』からの成長とか、平井亜門の若い菅田将暉感とか、中村守里黒木ひかりハロプロっぽさなどの成長を内包した期間限定の断面を捉えているからこそでもある。

 現実の高校演劇においては新型コロナウィルスの蔓延による開催中止という「しょうがない」状況が続いている。簡単にやるべきだとかリモート演劇なんていえないけれど、期間限定だからこその煌めきを出しうる機会が停止したまま、学年や年齢という強制スクロールは止められない現実の切なさともリンクする。

 改めて密とも言える応援席で腹から声を出す瞬間は、プロレス観戦をしていても手拍子しかできなくなってしまった現代においてこそかけがえのないものと映る。自分がその年代の時には「腹から声を出すなんて」と斜に構えていたのに、今になって羨望が強まってしまうのは罪作りでもある。

 グラウンドの外からなされる応援がグラウンドの結果に影響する範囲は限定的だけど、応援をしている自分自身や周りの感情には影響する。そして、観戦の解像度を高めるからこそ完璧超人に見える人々も自分と同じ高校3年生であり、そこに立つための努力や立つ事自体への恐怖への思いを馳せられる。それぞれの結末はそれぞれにあるのだけど、人間には大きく分けて二種類いる。腹から声を出して応援した瞬間があった人間となかった人間だとさえ思えてくる。