太陽がまぶしかったから

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『ノマドランド』感想〜アメリカ開拓者の伝統を背負わされた現代の楢山節考のロマンと実像の余白

ノマドランド (字幕版)

ノマドランド』感想

企業の倒産とともに、長年住み慣れた企業城下町の住処を失った女性、ファーン。彼女の選択は、一台の車に亡き夫との思い出を詰め込んで、車上生活者、“現代のノマド(遊牧民)"として、過酷な季節労働の現場を渡り歩くことだった。
毎日を懸命に乗り越えながら、往く先々で出会うノマドたちとの心の交流とともに、誇りを持った彼女の自由な旅は続いていく… 大きな反響を生んだ原作ノンフィクションをもとに、実在のノマドたちとともに新しい時代を生き抜く希望を、広大な西部の自然の中で発見するロードムービー

 本作は『ノマド 漂流する高齢労働者たち』というドキュメンタリー本を原案とした映画である。主人公の夫を亡くした60代女性であるファーンと彼女との淡いロマンスを感じさせるデイブ以外はほとんどの人物が本人役で出演しているため、ドキュメンタリー映画のようでありながら、明確なストーリーが描かれたロードムービーとしての虚実が入り乱れる構造にある。

ノマド」の意味する日米の違いとロマンとの相反

マクドーマンドは「40代の頃、私は夫に『65歳になったら、名前をファーンに変えたいと思う。ラッキーストライクを吸ったり、ワイルドターキーを飲んだりしてRV車で気ままに暮らしたい』などと言っておりました。あの頃の私は車上生活に自由があると思っていましたし、車上生活者にロマンを感じていました。しかし、あの本は車上生活の実像を私に教えてくれたのです。車上生活は経済的な苦境と結びついたもので、私と同じ60代の人が車上生活を余儀なくされることも珍しくないのだと。」と語っている。

 本作の製作者であり主演女優でもあるフランシス・マクドーマンドは本作を映画化するのにあってこのように語っている。自分としても車中泊への憧れがあるし、セミリタイアできるであれば田舎町を転々としながらフリーライターやITエンジニアとして週三日間労働にしたいと夢想したりもする。

 そもそも日本において「ノマド」と言えばテレワークの広まりによる「どこでも働けるから旅を続けられる」といったある種の高等遊民を想起するが、アメリカにおいては季節労働の需給に合わせて「働ける場所が変わるから旅を続けざるを得ない」といった車上生活の労働者を指すという点で全く異なる位相にある。Amazonやドラッグストアではまるで社宅のような福利厚生として「駐車場完備」が提示され、駐車場さえ貸せば住み込み労働してくれる高齢の車中泊民が資本者側にとって効率の良い労働者として働かされている構造にある。

 それらが悲壮的に描かれることはあまりなく、むしろ「その開拓者精神こそがアメリカの伝統である」「ヒッピーカルチャーを続ける流浪の民」といった演出と「それは本当にポジティブな自己決定なのか?」といった観客側の感情が相反するが、それこそが、マクドーマンドのいう「車上生活者のロマンと実像」を思い至らせる余白としての効果がある。

車中泊チュートリアルと現実のハードモード

そのお金の一部で、中古のフォードE250カーゴヴァンという白の大型ヴァンを買い、生活できるように改造した。後部スペースにベッドをつくり、屋根にソーラーパネルを設置し、空気の流れを生む天井ファンを付けた。後部ハッチに料理用レンジを据え付け、コンパスが描かれたステッカーと、森のシルエットが描かれたステッカーをヴァンの両サイドに貼った。この新居を、ガイは「Forever Lost」と、アンは「Miss Carry Van」と名づけた。 wired.jp

 車中泊を始めるきっかけが実在する YouTuber のボブ・ウェルズの「CheapRVliving」というのも現代的だ。ヴァンを改造して暮らしていくのは楽しそうであるが、特に序盤はトイレの問題や冬の厳しさが描かれているし、タイヤがパンクしてスペアがない場面まである。それを助けて説教するのも実在のノマドだ。

 季節に合わせた労働を続けていくからこそ、アメリカの雄大な自然や四季の移り変わりを感じられるという見方もできるが、しんどい移動時間は労働時間外だし、車のエンスト修理は自腹だ。$2,300。1ヶ月の給与が1回の失敗で飛んで姉夫婦に金を借りるために戻らざるを得なくなる。

 この辺りには『スーパーカブ』のチュートリアルモードのような演出も感じるが、人が通らない荒野においてパンクやガソリン切れを起こしたらそこで凍死や餓死をする可能性すらあるハードモードだ。車上生活者のロマンと実像の落差は想像よりも厳しい。すでに癌に冒されているからこそ旅を続けて死に場所を探しているような発言をする人までおり、都市を放浪し続ける高齢者は現代の楢山節考なのではないかとすら思えてもくる。

 それでいて、ファーンは姉の家に住むという選択肢も残っているし、教会に泊めさせてもらうという選択肢もあるのにも関わらずヴァンで眠ることを選択し続けるという点で、「あえて」が残っている。また登場人物に黒人が少ないのは、黒人の車上生活者は有意に逮捕されやすいといった人種差別的な問題もあり、車上生活ができること自体が下層ではないという見方もできる。

定住できない寂しさと「またね」を本当にする旅

 行く先々で他のノマド民との出会いがあるが、ある程度の仲を深めるごとに別れていくの印象的だ。目的地の違いであったり、季節労働の終了であったり理由はさまざまだが、労働という観点においては『百万円と苦虫女』だし、関係性を少しだけ深めた翌朝には会話を交わさずにどちらかが車で去っていくのは『ブラウン・バニー』を想起する。

 ずっと同じ場所で働くことも、家族のいる実家に定住することも、誰かとずっと仲良くすることもない。それは自由でもあるが、深く入りこめない恐怖心ともセットになっている一方で物語が進むにつれて「再会」のシーンが出てくる。季節労働のために移動しているのだから、次の場所で再会することもあるし、長く一緒にいるよりも何度か再会すると妙に馬が合うのもあるあるだ。

 最終的に同年代でしばらく同じ仕事を続けたデイブとロマンスになりかけるのだけど、彼の取った行動こそが「改めて家族の家に住む。できればファーンも一緒に」ということであり、やはりヴァンに乗って去っていく場面となる。あれだけ大切にしていたデイブ自身のヴァンのパンクに気付かなかったり、デイブの家では寝られずにファーンが自分のヴァンに寝転ぶシーンが切ない。別れてまた出会う時のみのときめきに心が灼かれている。

 RTRで再会したボブ・ウェルズは息子の自殺の話をして「この生き方で一番好きなのは『さよなら』がないことなんだ」と語る。「またどこかで」と言って旅を続ければいつか再会できる。それは、ファーンにとっての亡き夫かもしれないし、デイブかもしれない。ちょうど直近であった木村花メモリアル興行のタイトルも「またね」だったのだけど、「またね」という言葉には魔力が宿る。

 結局のところでファーンは過去に夫婦で住んでいた家に戻って思い出の品を手放し、改めてヴァンに乗り直す。彼女は物理的には旅を続けているようでいて、心は過去に縛られたままだったのだけど、その枷が外れたところで映画は終わる。その旅が資本主義にとって都合の良い死に場所を探すためのロマンと実像が入り乱れた余白であったとしても「See you later」を本当にするために。