太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

廣田龍平『ネット怪談の民俗学』感想〜インターネット老人会語りをしたくなるネット怪談の変遷とシミュレーション仮説の認知戦

ネット怪談の民俗学 (ハヤカワ新書)

インターネットの進化とともに歩むネット怪談

空前のホラーブーム、その源流がここにある。
ネット怪談はどのように発生し、伝播するのか。きさらぎ駅、くねくね、リミナルスペース……ネット民たちを震え上がらせた怪異の数々を「共同構築」「異界」「オステンション(やってみた)」など民俗学の概念から精緻に分析、「恐怖」の最新形を明らかにする

怪談やオカルトについて、その実在性については卒業してしまったのだけれども、未だに関連情報を読み込んだり、イベントや展示会などに参加したりしたくなる魅力がある。ある種の感情操作の極北としての表現であったり、出自や変遷の経緯を辿っていくエンターティメント性に惹かれるからだろう。

本書は、ネット怪談の発生と伝播のメカニズムを解明する試みであり、民俗学の視点からその構造を分析する本であるが、怪談そのものの歴史ではなく、インターネットの進化とともに歩んできた「ネット怪談」の変遷を追体験できる内容になっている。

きさらぎ駅、くねくね、コトリバコ ── 90 年代後半からパソコン通信や匿名掲示板で囁かれ始めたネット怪談は、ここ 30 年間で高精細な画像やライブ配信動画、そして生成 AI によるディープフェイクや SNS などにメディアを乗り換えてミームを伝播してきた側面がある。

到達不可能なアーカイブと初出のロンダリング

本書が明かす最も重要な事実の一つは、ネット怪談が「アーカイブの消失」と「初出情報のロンダリング」によって成立していることだ。

ニンゲンの場合、まず真偽不明のうわさ話があり、肉付けするために創作画像がつくられるが、転載の過程で創作であるという情報を欠落させたままネット上に出回ることにより、当初のうわさ話との相乗で現実感が強まっていく

例えば「ニンゲン」は想像図として明記されていた画像について転載が重ねられる過程で、「CG」「想像図」といったメタ情報が除去され、「実在の証拠」として流通し始めていった側面がある。これはアメリカで流通したスレンダーマンにおいても同様であり、最初は「ネタ画像」だったものが、転載の過程で「創作」であるという情報が欠落したまま流通することで実在性を獲得している。

「ヒサルキ」はおいては最古の投稿はどこかの電子掲示板由来ということになっているが、URL もサイト名も明記されておらず、当時の参加者たちも見つけられなかった。つまり、転載を装ったネタの可能性があるのだ。初出が存在しないにも関わらず、「どこかの掲示板からの転載」という体裁を取ることで、より古い起源があるかのように偽装され、記憶の捏造が行われていく。

記憶に頼らざるを得ないインターネット老人会語り部

本書には、ところどころ明確な根拠を示さない記述があるが(『○○ という怪談は当時誰もが知っていた』など)、それはたとえば二〇〇三年の2ちゃんねるや二〇二〇年の TikTok に筆者が(研究者としてではなく)単なるユーザーとして参加していたときの実体験や印象に基づくものである

実際問題として当時のネット掲示板テキストサイトは失われてしまっているものも多いし、2000 年代初頭に種本や増幅装置として大いに影響したであろうコンビニ本なども現物を確認するのが困難な状態にある。著者はそのような失われたアーカイブを補完するために、当時の記憶や印象に基づいて記述しているというが、この「記録には残っていないが記憶には残っている」バイブスにこそインターネット老人会としての面白みとネット怪談自体のメタ構造がある。

令和ロマンの漫才は「わかる人にはあるある」を刺激しつつ、ケムリのツッコミで本当にあることなんだという安心感と、ケムリよりも早く分かることもある観客の優越感をコントロールしているのだけど、今回の動画は「ないのにあるある」という虚構の共感を出すことに成功しており、それがマンデラエフェクトを想起させるのだ。

こうした手法は、インターネットアーカイブの不完全性を前提としており、「確かに見た気がするののに見つからない」という体験にネット怪談の妙味があった。しかしながらインターネットアーカイブが発達し、AI にクローリングされている現代においては使えなくなっていく手法でもあり、ネット怪談の変遷はインターネットの変遷とも対応づけられている。

僕自身が 20 年前に入り浸った匿名掲示板やねとらじ怪談などの記憶は、アーカイブが残っていないからこそ語り継がれるものであり、だからこそ集団幻覚や夢や偽記憶だった可能性も捨てきれない。洒落怖について 20 年前から知っているような気もすれば、 10 年前ぐらいに再履修していたのかもしれない経緯について明確に言い切ることができないのだ。

きさらぎ駅という概念的禁足地とリモートオステンション

ネット怪談の形式として"オステンション"の変遷も語られる。オステンションとは、怪談や都市伝説の実在性を確かめるために、実際にその場所に行くことを指す。従来の心霊スポットは物理的な場所に存在し、訪れることで恐怖体験を味わうことができた。しかし、ネット怪談の中には「行こうとしても行けない」概念的な禁足地が存在し、反面でリモートでのオステンションが可能になってきた側面もある。

インターネット怪談の代表例である「きさらぎ駅」や「巨頭オ」は、概念的禁足地として機能し、行こうと思っても行けない場所として存在する一方で、考察や Google Earth で場所を特定していくといった形でリモートでのオステンションが可能なものとして語られる。そして、虚構が現実を変容させる「逆行的オステンション」の発生まで行われていく。

例えば、「さぎの宮駅」がきさらぎ駅のモデルとして扱われ、同鉄道自身が「さぎの宮駅がもとになっている」という考察を利用して聖地化された現象は、概念的禁足地が現実の地理空間を再編成する力を持つことを示している。きさらぎ駅は「どこでもない場所」でありながら、ここにあるかもしれないものとして商業化されうる。

シミュレーション仮説の素朴な認知とグリッチの実在化

著者がゲーム用語「noclip」でバックルームズを説明していることは示唆的だ。Noclip はゲーム用語で、特にゲームの開発時、作中のオブジェクトによってキャラクターの進行が阻害されないようにすり抜けることを可能にするモードである。現実の境界を「すり抜けて」しまった先にある空間——これが現代のネット怪談が提示する新しい異界観だ。

異世界にまつわるネット怪談は、この世界と異世界との関係を、ゲームやシミュレーションなどデジタル・コンピュータで処理される空間としてイメージしていることが源泉にある。これは現実をシミュレーション世界として捉える認識が素朴にあり、「バグ」「グリッチ」が怪談の新しい語彙となった。超常現象は「システムの不具合」として理解されるようになっている。文字化けが「異世界の言語」として解釈されてきたが、AI による画像生成に起こりがちなグリッチが後追いしてしまっている。

これに限らず生成 AI や VR 技術が発展していく中で、自分自身も今はシミュレーションの一部を体験しているのではないかという素朴な納得感のようなものも生まれており、5 秒前仮説やシミュレーション仮説が、馬鹿馬鹿しいと思いつつも「今日はついていない」や「バチが当たる」程度の素朴な感覚で現実認識に影響を与えている側面がある。

異世界は物理法則や地理的制約を無視した空間だからこそ、到達不可能性が担保された概念的禁足地でありながらも、認識論の問題で"すり抜けて"しまうのではないかという不安感。悪夢であれ、酩酊であれ、精神疾患であれ、VR 空間であれ、いまこの瞬間が物理的に確かな「現実」であるという保証がないという新しい恐怖が生まれているようにも感じる。これもまた技術発展によるものだ。

本書は、ネット怪談の変遷を通じて、インターネットの進化とともに変わりゆく人々の恐怖の形を描き出している。ネット怪談は単なる娯楽ではなく、現代社会における人々の認知や感情、そして文化的な変容を反映した重要な現象であることを再認識させられる一冊である。