太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『花束みたいな恋をした』感想〜サブカル神経衰弱では立ち向かえなかった<生活>といううすのろと<恋愛>という邪魔者

花束みたいな恋をした 通常版 [DVD]

同じ音楽を違う音で聞いていた最高の5年間

 配信解禁を待ち侘びていた『花束みたいな恋をした』をU-NEXTで観た。すでに Clubhouse やネットラジオなどで詳細なネタバレをされても何も感じない人間になってしまっていたのだけど、初鑑賞をすると全く語り尽くされていないディテールが逆説的に浮かび上がってくるようにすら感じる。『大豆田とわ子と三人の元夫』の感想文でも思ったように、ひとつひとつのセリフや演出について全文書き起こして語りたくなってしまうが、あくまで個人的な感想をかい摘んで書くに留めたい。以下、ネタバレを含む。

東京・明大前駅で終電を逃し偶然に出会った、麦と絹。 バイト、同棲、就活…いつも二人で一緒にいた20代のぜんぶが、ずっと楽しかった。 猛スピードで加速する恋の忘れられない<最高の5年間>を描く、不滅のラブストーリーを 脚本家・坂元裕二、監督・土井裕泰が、初のダブル主演となる菅田将暉有村架純と共に打ち上げる。

 舞台は2020年から始まる。喫茶店にイヤフォンを分け合って音楽を聞こうとしているカップルに対して「イヤフォンで聞いたらLとRで鳴っている音が違う」「BLTサンド、ベーコンとレタス分けて食べました。それBLTサンド?」などの嫌味。菅田将暉演じる麦くんが話しているのも、有村架純演じる絹ちゃんが話しているのも違う相手。「恋愛は分けちゃダメなんだって。恋愛はひとりに1個づつ」と同じセリフを違う相手に言って立ち上がる。

 気まずそうな再会から2015年に戻り、これは似たような価値観を持った二人の5年間で終わる物語だとはっきりと示される。2020年の現在から思えば「同じ音楽を違う音で聞いていた」「恋愛はひとりに1個づつ」といった教訓が残った最高の5年間。2020年時点の絹ちゃんのメイクや表情や話し方が苦手なタイプになっていて、2015年時代の良い意味でスレていない感じとのギャップにクラクラとする。

相手に見えている表情とカメラが捉えた表情の差

 絹ちゃんはミイラ展を楽しみにしたり、『麺と女子大生』というラーメンブログをやっている。余裕のある男子に雑に扱われてたり、数合わせのパーティに呼ばれていることを分かって毒づくモノローグと、それを断らないで表面上の愛想を振り向く映像のギャップがあり、このギャップは二人が付き合ってからもずっと続く。相手を頭ごなしには否定しない優しさ(or 意志の弱さ)と社会性があるからこその不満の溜め込みと内部言語化による再帰

 その一方で押井守に気づいたシーンの嬉しそうな表情は麦くんに見えていないのにカメラでは捉えている。つまり、この映画における表情演技は「相手にも見えて理解できてるか?」「相手にも見えているか?」「カメラには映っているか?」の位相を意識することで読み解きやすくなる。これは会話の中にも出てくる今村夏子の作品でも多用されている。

 今村夏子は、敢えて一人称を取らないでカメラを固定する手法を好むのだろうと感じているが、その手法は『こちらあみ子』でより効いてくる。一般的なドキュメンタリー映像においては密着カメラと当事者の認知は同一であるという暗黙の前提があるが、それを崩してカメラが決定的な映像を捉えていても、あみ子がそれを認知しているとは限らないズレが執拗に描かれている。

 個人的には、むしろ実写版『魔女の宅急便』を出して俗物扱いされるカップルにこそ邦キチ味があるように感じていた。実写の押井守に関して言えば『立喰師列伝』にも『アサルトガールズ』にもピンと来なかったし、実写映画に関して言えば『呪怨』を撮った清水崇の話をするのが世界水準であろう。あっちはあっちで同じタクシーで去って何かが始まるYOKANがあったので清水崇監督の『こどもつかい』を観る観ないで揉めたり、『犬鳴村 恐怖回避ばーじょん』の是非で喧嘩したりしてほしい。

 それに限らず、脇にほんの少しだけ映り込む俳優陣の実在感とサブストーリーを妄想する楽しさがある。ラブホテルに連れ込まれる宇野祥平、終電を逃して初めて会った男とタクシーに入る瀧内公美、そして麦くんの月5万円の仕送りを長岡花火への協賛金にする小林薫と花火大会。本当にちょっとしたシーンなのに爪痕を残す凄み。

サブカル神経衰弱とマッチングアプリを内在化

 最低の朝帰りの次にあった最高の朝帰りで「ほぼうちの本棚じゃん」と好きな作家や音楽だったり、同じスニーカーをはいていたりすることに驚き、気が合う二人の距離を縮めていく。少し前のカルチャー好き同士であれば、レアではないがベタではない固有名詞を出す対戦型カードゲームになりがちだが二人にとっては固有名詞を一致させていくサブカル神経衰弱となっており、コフートの言うところの双子自己対象体験である。それでいて、「どう読み解いたか?」についての激論を交わすこともなく「いいね」の一致割合が重要になっていく。もちろん、固有名詞の一致だけでなく、麦くんの描いてきた絵に「好き」と言われたり、ドライヤーのときめきや、店員さんへの態度などもあるのだけど、それは趣味の一致に浮ついた評価基準によるポイントカードへの加点だ。

BE HAPPY 相思相愛がいい あなたと おなじだけ好きがいい
だって買い物しててても 同じコップで感動したい

 その上で、3回ご飯食べて告白しなかったら友達になってしまうルールがモノローグで語られており、極めてマッチングアプリ的な趣味相性診断と交際規範の内面化がなされていると感じた。現代の若者にとってはインターネットを用いたハッシュタグ的なカルチャーのトライブ化が当たりにできるのにも関わらず、その二人が明大前駅の終電直前という特定の時空間で偶然居合わせたからこその運命に新しい回路がある。それだけの運命を感じながらも、どうでも良い話を敬語で続けて終電まで残り少なくなってしまう焦りとか、スマホカメラ越しに告白した後に「手をつなぎませんか」となったり、初めてのキスをするあの感じ。まさに正調のラブストーリーであるが、「ここからの話」でもある。

 告白に成功してからの性欲の強さや共依存的な距離感の近さや敬語がなくなっていく様は、まだ付き合っていない状態におけるハラスメントに対する自己抑制の急反動。マッチングアプリや街コンが流行っているのも「口説きの許可」がない恐怖心への反動が大きいだろう。現代的な恋愛においてはハラスメントに配慮するが故に曖昧さこそが悪となっていき、許可プロセスを得た相手に対する急激なモード変更が起こりがちだ。10年前の映画なら終電を逃した最初の夜で最低キスまでは終えてから実は相手に彼氏がいてという映画『モテキ』のような話になりがちだが、言わなくても分かることについて極めて理性的な許可を取りながら物事を進めるからこそ後半とのギャップが生まれている。

 ちなみに告白シーンの直前で、「イヤフォンで聞いたらLとRで鳴っている音が違う」はMummy-Dおじさんからの受け売りかい!が明らかになったのには笑った。でも自分を含めてサブカル好きな人って他人から聞いた「正解」を以前から考えていたかのように内面化して引用しがちよね。立て板に水で語れる時ほど自分がその場で考え抜いた言葉ではないことの証左だったりもする。

『恋愛生存率』というブログの存在感と言語化の功罪

 固有名詞の羅列に留めることが多い映画内で大きな存在感を放つカルチャーが作者のめいさんが自殺した『恋愛生存率』という架空のブログだ。絹ちゃんが何年も読んでいるそのブログでは、「はじまりは終わりのはじまり」「出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティのようにいつか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ」と書かれてきたのに、「今回は恋を終わらせるつもりがない」が一年前。真相なんてわからないけれど、言語化してしまった理想と現実の乖離は死に至る病をも産み出す。

 女性ブロガーの死といえば雨宮まみを想起せざるを得ない。彼女が書いていたのは恋愛そのものよりも性やこじらせのことではあったし、事故であるという点についても疑い得ないが、その早すぎる死が文章にパフォーマティブな魔術性を帯させてもいるように感じられることがある。絹ちゃんはブログをやっているし、モノローグにおいても何がどう不満なのかを言語していく癖がある。きっかけは一時の感傷であっても、めいさんの言葉を過剰に内面化して行動に反映しながらも、それと自覚されないハビトゥスとしているのではないか。

 唐突に変わる映像トーンとモノローグ。メイさんの受け売りで「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のことを思い出しちゃうんだって」と麦くんに花の名前を教えない絹ちゃん。「マ」で始まる写真の花は「マーガレット」であろう。その花言葉は「恋占い」「真実の愛」「信頼」であるが、「最高の形で始まったパーティ」と言語化されてしまった恋愛の生存確率は始まる前から終わりを内在しているから花の名前も教えない。「恋占い」には「愛してない」も内在する。

労働とカルチャーとノンポリと過剰適応

 幸せな大学生活は終わりを迎え、イラストレーターの仕事や就職活動やアルバイトになっていくのだけど、キャストの重なり的にも映画の『何者』を想起する。そこでは社会問題的な買い叩きや圧迫面接などの問題だったり、異なる価値観の親からの圧力や仕送りの停止があったりもする。そこで出てくる麦くんの「偉いのかもしれないけど、今村夏子さんの『ピクニック』を読んでも何も感じない人」という台詞は象徴的だ。

 本映画を観る前段階において「『ピクニック』を読んでも何も感じない人」についての解説を書いたが、重要なのは「偉いけど」と先につくこと。つまり「こういうシステムがまかり通る日本のシステムは狂ってる」と言いながらも、これまで読んできた文学を相手に溜飲を下げて冷笑する道具に貶めるだけになってしまっている。もちろん、文学の実効力なんて限定的な話だとも思えるが、ひどくノンポリ的な精神的勝利法である。だからこそバトルモードになった麦くんが絹ちゃんから言われた2回目の時には全く響いていない。

 そこは本流からズレるからだろうし、実際にノンポリなのかもしれないけれど、イラストを自分から売り込むために SNS や pixv やメール応募などの努力をしているようには見えないし、かといって過労死問題や反政権デモへの感想が述べられることもない。東京湾に荷物を捨てたドライバーのテロリズムにのみ仮託されるが、それだってどこか他人事だ。絹ちゃんの不満言語化力もそうだが、「自分はこういうことに不満を感じる」については借り物の言葉をコラージュして言語化できるのに、だからこそこまでで満足して具体的な解決行動が伴わず、不満が蓄積していく構造にある。あくまでカルチャーは消費物であって、絹ちゃんにとっての「恋愛生存率」のようなハビトゥスにはなっていないのだろう。

 それでも酒やコーヒーを飲みながら長い帰り道を歩いて語り合うのは本当に楽しいし、経済的な大変さがあるからこその結束もあろう。麦くんが偉いのは先輩のように彼女を殴ったり、夜の街に働かせてまで自分のクリエイティビティを押し通したいとまでは思えなかったところ。ただ彼がいたからこそ、麦くんが自己啓発的で決断主義的な過剰適応に至ってしまったのかもしれないとも思う。大澤真幸のいう「現実への逃避」のようにモードに曖昧さがないのが麦くんの性質だけど、だからこそ要領はよくない。結局のところで、簿記の資格をとってから就活した絹ちゃんのが先に就職するし、5時までに仕事が終わるという嘘に騙される。

<生活>といううすのろと同じ景色

 そこから先のすれ違いは観ているのもしんどいのだけど、知っている感じもする。いつしか、一緒に演劇や映画を観にいくのは「やってあげてる」になり、非効率的で興味が持てないことには上の空になっていく。それでいて頻繁なリスケによって絹ちゃんが自分の優先度が下げられていくような感覚を抱いているのもわかる。絹ちゃんは絹ちゃんでそれを心の中で明確に言語化しながらも、表情だけで伝えようとする。実際的な喧嘩も何回かはあるのだけど、言わなくても伝わるぐらいに似たもの同士だったはずだからこそ、言っても伝わらないことを何回か学習したら終わりだ。誕生日プレゼントのイヤフォンは、それぞれが自分の世界に入り込むための道具になる。

言わなくても感じ取ってもらえると思い込み、何もしないでいることほど傲慢なことはない。コミュニケーションを怠けることが、どれほど周りの人間を混乱させ、傷つけるか、父に教えてやれるのは自分だけかもしれない。

 結局のところで、『人生の勝算』を読んだり、近所の老夫婦のパン屋の閉店に「駅前で買えば」と返すようなモードに変貌してしまった麦くんに曖昧な態度を取りながらシビアな評価基準によるポイントカードへの減点が行われていく。「蛙化現象」なんて言われているけれど、この状態に気づいてから正攻法で覆すのは難しいから、逆に残る手段は「ときめき」がなくても大丈夫であるとを提示しながら「結婚しよう」という一発逆転戦略になってしまう。

もう他人同士じゃないぜ
あんたと暮らしていきたい
<生活>といううすのろがいなければ
街を歩く二人に
時計はいらないぜ

情けない週末

情けない週末

 この歌は「<生活>といううすのろがいなければ自由なのに」と読むこともできるが、「<生活>といううすのろがいるからこそ、時計(や法的な手続き)が必要になる」とも読める。いつまでも、自由気ままに低賃金で暮らしていく想像もできるが、30歳を超えたら。40歳を超えたら。すでに疲れてパズドラぐらいしかできなくなっていた麦くんにとって、迂遠なカルチャーを摂取したい優先度すら低くなっていたのだろう。「<生活>といううすのろを自分が引き受けるから絹ちゃんは家で好きなことをしていてくれ」という自己犠牲の発露。だけども、そんなのは絹ちゃんのプライドも許さないし、相容れないジェンダー規範が剥きだすことにもなってしまった。そうなる前に必要だったのは互いに対立しえる気持ちがあることを前提にした心理的安全性の高い対話とすり合わせ。神経衰弱のようなコミュニケーションを繰り返しても情報量は増えないが、反論が発生しえる対話によって止揚された結論が出ることもある。本来的には違うからこそ価値がある。

 絹ちゃんが求めているのはどこまでも同じ景色を一緒に見ることだった。だけども、個々の発言や先輩の葬式に対する感じ方の違いなどを経て、同じカルチャーを摂取して、一緒に生活して、就活活動をして、それぞれ働いていたのにイヤフォンのLとRのように全く違う音を聴いていたことに気が付く。そもそも神経衰弱でペアになるカードは必ずマークが異なる。そして恋愛においては「相手のため」だと独りよがりに思い込んだ自己犠牲的な解決策を提示されるほど萎えることはない。つまり2020年の二人が学習済みの二つの教訓である。

 一発逆転への試みは最後までなされるのだけど、もう戻れないことを知る。同棲解消の片付けはやけに晴れ晴れとできるし、心理的安全性が高いからこそぶっちゃけ話も捗る。麦くんはミイラ展に引いていたし、絹ちゃんはガスタンクに興味がない。その後のラーメンブログについては語られもせず、絹ちゃんとオダギリジョーのパーティ抜け出しラーメンはやっぱり浮気だったんじゃないかという疑念が残る。LINEの時刻は1:02。ラーメンブログを続けていれば証拠が残ったのに。

ぴったりの二人に現れた<恋愛>という邪魔者

 SMAPが解散した時のように、この二人がどこまで戻ればうまくいった世界線があるのかと想像するのも楽しい。もしかしたらトゥルーエンディングルートは告白をしようとした夜に、イヤフォンを分け合って聴き始めないことだったのかもしれない。そうすれば説教もされず、そのまま終電前に帰って、互いに適切な距離感で好きなものを勧めあったり、安アパートひとり分や太い実家暮らしできるだけの生活費を稼ぎながらマイペースに仕事とカルチャーの両立ができて、どちらかに恋人ができたりしつつも、いつしか相応の収入や経験や機会をそれぞれが得て違うことを前提にした二人の穏やかな結婚ができたのかもしれない。実際、別れた後の二人はそれなりにカルチャーを摂取できるように戻っている。

気の合うカップルが愛でもっと盛り上がる。でも、それが冷めたとき、合っていたはずのものすら合わなくなってしまうという瞬間がこの映画にはあった。そんなシーンを見ると、ふたりが友達ならずっと気が合っていただろうにと思えて悲しくなった。

 西森路代の "『花束みたいな恋をした』は現代の「東京(周辺)ラブストーリー」である" という論評にあったこの指摘はひとつの答えだろう。<生活>といううすのろの前にあった、<恋愛>という邪魔者がいなければ街を歩く二人は自由だった。終電を逃さないように時計は必要だったろうけれど。それでも、スラヴォイ・ジジェクのいうような「恋愛抜きの恋愛」を最初から求めるような小賢しさは最高の5年間をもたらしてはくれない。

 「最高の形で始まったパーティ」と言語化されてしまった色鮮やかで根のない恋は始まる前から終わりを内在していたが、だからこそ花束のような思い出を抱えながら次の恋愛の生存戦略を練り上げていく。靴を欲しがる新しい彼氏やピアスを忘れる新しい彼女は互いの趣味嗜好からして羹を懲りて膾を吹いているんじゃないかとも思うのだけど、ある種の極端なモード変更を繰り返しながら、いつしかちょうどいい塩梅のシュタインズ・ゲートに辿りついていくのが成熟というものなのだろう。