『ドライブ・マイ・カー』感想
舞台俳優であり演出家の家福(かふく)は、愛する妻の音(おと)と満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう。
2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去を抱える寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。
悲しみと“打ち明けられることのなかった秘密"に苛まれてきた家福は、みさきと過ごすなかであることに気づかされていく――。
『ドライブ・マイ・カー』を配信で観た。村上春樹の『女のいない男たち』内の短編を原作にしているし、周りの評判も良かったので観たかったのだけど、上映時間3時間に日和って配信になるまで待った。正直なところで導入部分は話が見えず、退屈に感じてしまったところもあるのだけど、アバンタイトル以降から流れる瀬戸大橋や広島の街並みなどの美しい風景に引き込まれていき、徐々に激しくなっていく情報の奔流が怒涛のように押し寄せてくる映画体験となった。エンターティメントとして面白く、語りたくなる部分が何箇所も出てくる。
すぐに2回目を観返して導入部の意味合いが分かったり、原作やモチーフとなっている『ワーニャ伯父さん』を読み直したり、スクリーンショットをとりながら検証したりして多層的な理解を深めたりする受容体験は良くも悪くもポスト配信時代のものであった。長大な文章になってしまうことが想像されるが、ひとつひとつ語っていきたい。以下、ネタバレを含む。
赦すための怒りをやり過ごしてしまった罪を受け入れる
音が不倫をしている瞬間を目撃しながらも、やり過ごして普段の生活を続ける。テレビドラマや5chまとめであれば修羅場になったりするのかもしれないが、見なかったことにすれば収まると自分に言い聞かせることにリアリティを感じる。それでも普段の態度であったり、『女のいない男たち』内短編の『シェラザード』にも出てくるヤツメウナギの寝物語を覚えていないフリをされるといった綻びに現れてきて、ついに「話をしたい」と音から言われた日に彼女は死んでしまう。
音が本当は何を思っていたのか、どうすれば死なずにすんだのか。それを理解するための旅であるかのように映画は進んでいくのだけど、この物語の主題は他者を完全に理解しようとするよりも、自分自身の心と向き合うことの大切さに気づくところにある。音は自傷的な性倒錯を繰り返しても向き合ってくれない家福への絶望と後悔に苛まれながら死んでいったというストーリーをでっちあげて自己憐憫に浸るのは簡単だけども、他人の事情は他人の事情であり、そこには前世の因果も村上春樹作品特有のメタファーとして語られるファンタジーもないのかもしれない。好きな人の家に空き巣をしていいが、その部屋で自慰をすべきではないと云った独自の倫理だ。
くも膜下出血に心因性は見出すのは難しいし、夫を愛しながらも性欲が別にあるのもそう特別なことではないのだろう。Tinderにはそんな既婚女性達がたくさん登録している。男性であれば、妻を愛しながらも風俗や出会い系などで性欲を解消しても心までは取られるとは思っていないし、どうでも良い相手だからこそ肉体的な欲望をぶつけられるなんて話さえも受け入れられるのに、相手が素晴らしい女性であると思うほどに何か深淵な事情があって、それを自分が救えなかったのではないかと抱え込んでしまう。相手も同じ人間なのに。
彼女は面と向かって謝罪したし、おれはそれを受け入れたのだ。おれは忘れることだけではなく、赦すことを覚えなくてはならない。
『女のいない男たち』内にある『木野』という短編内においてやはり妻に浮気された木野がそう思い至るのは、家福のありえたかもしれない未来。もちろん「本当の彼女」なんてことは永遠に分からないのだけど、分からないからこそ悲しくなったり、怒ったりする必要があった。それは真実を知りたいからでも、理解したいからでもなく、音を赦すためであり、自分自身が正しく傷つくためだ。なんでもないようにやり過ごして衝突を避けることで彼女を含めた生活を守ろうとすることは彼女を赦す機会を永遠に奪いさることでもあった。それに気付いたからこそ、家福はどんなに辛くとも絶望と悲しみを乗り越えず、共存して生きていかざるを得ない。ワーニャ伯父さんのように。
人間の多面性と変化を理解させるメタ構造
そもそも人間は多面的な存在であり、他者の一面だけを見て全てを理解したかのようなつもりになるべきでない。そう言うだけなら簡単なのだけど、観客に腹落ちさせるための周到な演出が重ねられている。それは、音が性交の後にだけする寝物語であったり、不倫であったり、みさきの母親の多重人格であったりというスキャンダラスな描写だけでなく、普段は丁寧な所作の高槻が突然に発揮する暴力性であったり、演劇の場では物憂げな表情が多かったユナもユンスの家で家福と食事する時には笑顔でひどいジョークを飛ばしたりといった日常にも現れる。
家福のかかってしまった緑内障のように、どんな人間にも他者に対する盲点のようなものがある。それは良いことでも悪いことでもなく、すべてを知り得ることは出来ないという現実を受け入れるべきだけのことだ。それは「人には裏の顔がある」といった単純な話ではなく、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」であるということだ。
すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」となる。
「男女が親友になるには先に恋人になる必要がある」というワーニャ伯父さんの台詞も先に恋人としての顔も知ってからの友情のが深いといった意味合いだろう。そのような熟年夫婦への憧憬もある。対人関係ごとに複数の顔を持って、それが変質していくのは家福も例外ではない。みさきやユンスに当初向けていた演技めいた台詞は徐々に打ち解けたものに変化していく。それは撮影現場内に流れる実際の空気をも反映しているのかもしれない。『アフター6ジャンクション』で濱口竜介監督がライムスター宇多丸から受けていたインタビューで、「上映時間が3時間になってしまったのは、ストーリーの都合じゃない言葉を発してもらうまでの過程を描くとそうなった」といったことを答えていたのだけど、個々人の多面性と変化の過程を丁寧に描くからこそ、みさきの「音さんの全てを本当として捉えるのは難しいですか」が真に迫って響いてくる。
場の主導権を移譲するからこそのケア
家福は演出家として舞台全体をコントロールしているし、車の運転も自分でしたいと主張する。舞台であれ、車であれそこに同乗するのは自分独りだけではないが、だからこそ他者を含めた場の全体をコントロールできなくては上手くいかないし、同乗者も守れないという規範に縛られている。それは夫婦生活という乗り物の同乗にも現れており、だからこそ踏み込むことのできなかった後悔と「本当の彼女」を知りたいという欲望に直結する。
しかしどのような場合にあっても、知は無知に勝るというのが彼の基本的な考え方であり、生きる姿勢だった。たとえどんな激しい苦痛がもたらされるにせよ、おれはそれを知らなくてはならない。知ることによってのみ、人は強くなることができるのだ
すべてを知って場をコントロールすべきという規範が強くなった理由付けは想像でしかないが、幼い娘を肺炎で亡くしていることが影響しているのかもしれない。仕事が忙しくて眼を離していたり、音に任せたつもりだったり、どうしようもない理由であったり。具体的な理由は分からないが、ちゃんと自分が見ていれてば助かったのではないかという仮定の後悔はつきまとう。音の寝物語や不倫が始まったのも娘が死んでからのことであり、それもまた家福を頑なにする。
とまれ、家福は場を適切にコントロールするためにふるまっていたのだけど、それは自分自身の痛みから眼を背けることにもなっていた。半強制的な経緯であれども、コントロール可能性の象徴としてのサーブ900ターボの運転をみさきに任せる日々を送り、いつしか彼女の提案するゴミ処理場までドライブするようになったり、井戸の底に触れるような個人的な会話をしたり、嫌だったはずのタバコを車の中で吸わせる。そこには場の主導権を奪われるような危機意識とは裏腹にケアを受けているような心地よさもある。
男女ペアにおけるケアにはどうしたって性的なものが付き纏いがちであるが、娘が生きていたら同じ年齢であったみさきに対してそのようなそぶりは一切せず、むしろ老いて緑内障を患った父親へのケアのような距離感である。家福の視点から見た I DRIVE MY CAR は YOU DRIVE MY CAR になり、 YOU DRIVE OUR CAR になり、最終的には赤のサーブ900ターボも手放してしまう。演出家として他者をコントロールしてきたからこそ、自分自身の弱さを受け入れて誰かにハンドル預けていく必要もあったのだ。
車という位置方向の個室と同じ方向を見て交わらない視線
そもそも車というのは特殊な空間である。移動しながらも、外気や騒音から遮断されながらも美しい風景を窓に映す個室であり、音の録音したテープを流したり、個人的な会話も許される。家福があえて車で1時間程度離れた場所に住まわせてもらうのも車内での時間を大切にしているからだ。
大場の保証したとおり、彼女は優秀なドライバーだった。運転操作は常に 滑らかで、ぎくしゃくしたところはまるでなかった。道路は混んでいて、信号待ちをすることも多かったが、彼女はエンジンの回転数を一定に保つことを心がけているようだった。視線の動きを見ているとそれがわかった。しかしいったん目を閉じると、シフトチェンジが繰り返されていることは、家福にはほとんど感知できなかった。エンジンの音の変化に耳を澄ませて、ようやくギア比の違いがわかるくらいだ。アクセルやブレーキの踏み方も柔らかく注意深かった。また何よりありがたかったのは、その娘が終始リラックスして運転していることだった。
だからこそ、みさきに運転してもらうことを当初は渋るのだけど、スムーズな運転で余計なコミュニケーションをせず、ある意味では車に一体化した彼女を受け入れていく。赤のサーブ900ターボには音とみさきが溶け込んで同居している。三人でありながらも独りの空間であり、独りでありながらも三人の空間。それはそれで心地よかったはずだが、徐々にみさきがかけがえのない存在感を出していき、家福が助手席に座る頃にはバディのように変質している。ラストシーンではみさきと犬だけが赤のサーブ900ターボに乗っており、そこに家福はいないけれど、家福の魂も溶け込んでいる。
乗車と舞台には視線の交わりかたという共通点がある。車の運転中に同乗者の顔を見て話すのは危険だし、舞台においては観客に顔を向けて発話する必要がある。それぞれでコミュニケーションを取っていても視線は交わらずに一方向を向いている。これは、バーのカウンターで家福と高槻が話しているシーンにも通じる。
この映画には回想シーンやモノローグがない。時間は一方向にしか流れず、車も演劇も同じ方向を見ながら同じ方向に進む。劇団家福は時間的にも空間的にも同じ方向を見ながら同じ方向に進んでいき、もう戻ることができないように演出されているが、その中でも高槻は車の中で家福と視線を交わすことのできた特別な存在であり、また同じ小節を流し続ける針の飛んだレコードや音が吹き込んだテープは何度も巻き返される例外的な存在となっている。
みさきの故郷である北海道の上十二滝村にロードムービーさながらにサーブ900ターボで向かうは本編の盛り上がりのひとつであり、バディになる過程でもある。原作の雑誌掲載時に中頓別町であったみさきの故郷が小説版では上十二滝町に変更されており、映画版では上十二滝村に変更されている。中頓別町は北海道の北端にある稚内からさらに100km。本当に広島から車で北上しながら中頓別町に行くことになっていたら往復だけで映画が終わってしまうので架空の町名への変更があったからこそロードムービーが成立する側面があったのかもしれない。
それはさておき、北海道の上十二滝村といえば村上春樹の『羊をめぐる冒険 (講談社文庫)』の舞台となる十二滝村を想起させてニヤリとさせられる。ちなみに、ビートルズのレコードである『ラバー・ソウル』のアンログA面収録の一曲目は「ドライヴ・マイ・カー」であり、二曲目が『ノルウェーの森』であることから、ここにも繋がりや時系列をも妄想させる。
欠損を抱えるから意識せざるを得ないコミュニケーション
家福の演出する舞台は登場人物ごとの多言語でコミュニケーションをしながら、スクリーンで字幕を表示させる特殊なものだ。このような形式の舞台を観るのは初めてであり、導入シーンの『ゴドーを待ちながら』についても理解するまで困惑したが、確かに互いの言語が分からなくともコミュニケーションできているようにも見える。このような形式でチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演劇を作り上げるまでの過程が骨子にあるからこそ北海道での無言のハグであったり、演劇のラストシーンの手話であったりが明瞭に伝わってくる。
本映画には「異なる言語での演劇やオーディション」「声を出せずに手話を用いる元ダンサーのユナ」「表情の乏しいみさき」「そしてテープの音声だけになってしまった音(まさに音だけの存在)」が登場しており、それぞれに円滑なコミュニケーションのために必要とされる要素の欠損を抱えており、だからこそ伝わっているか?を意識せざるを得なくなり、逆説的には円滑だと思い込んでいた通常のコミュニケーションを疑うことにもなる。
欠損を抱えたコミュニケーションを埋めるアプローチとして韓国語を母国語とするユンスは妻を知るために韓国手話を勉強し、日本に住んで日本語を話し、英語までも理解できるようになる。対照的に高槻は「相手をもっと知りたいと思うなら性交しかない」「分からせるには暴力しかない」といった退廃的な私小説のような行動に出て退場することになってしまうのだが、それはそれであり得た道だ。家福は舞台演出を通じて高槻にも異なるアプローチを丁寧に教えていたようにも感じるが、そんなことでは救えなかった絶望も描かれる。
「実を言うと、その男をなんとか懲らしめてやろうと考えていたんだ」と家福は打ち明けるように言った。「僕の奥さんと寝ていたその男を」。そしてカセットテープをもとあった場所に戻した。
「懲らしめる?」
「何かひどい目にあわせてやろうと思っていた。友だちのふりをして安心させ、そのうちに致命的な弱点のようなものを見つけ、それをうまく使って痛めつけてやるつもりだった」
バーでトラブルになりそうな時に「先に出てろ」と言ったことに原作で明言されているような悪意はなかったと読み取るのが素直な反応なのだけど、主人公の家福に対してさえ「本当のところ」は他人である観客には分からないと改めて突き放す。未必の故意があったとまでは言わないけれど、重過失まではあった気もする。『アイズ・ワイド・シャット』のようにファックをすれば分かり合えるという思想性は、娘の周回忌の後の激しい性交にも現れるが、家福は眼を隠してしまい「そうじゃない」と言外に示す。どっちが正しいかではなく、異なる価値観を持っていたということだ。
テレパシー装置として現れる『ワーニャ伯父さん』
本映画においては『ワーニャ伯父さん』がもうひとつの原作と言ってもよいほど物語の骨子となっている。それは音の吹き込んだテープであり、演劇の舞台を作りあげるているからという話だけではなく、それらの道具立てが『ワーニャ伯父さん』の台詞のひとつひとつが心情を吐露するモノローグになったり、場面を総括するアフォリズムのようにも響いてくるところにも現れる。
例えば「真実というのは、それがどんなものであれそれほど恐ろしくはないの一番恐ろしいのは、それを知らないでいること」 は音の吹き込んだテープ内にあるエレーナの台詞なのに、知らないことを恐れる家福の心情をそのまま表したモノローグになっている。原作においては赤のサーブ900ターボの中でベートーヴェンの弦楽四重奏曲やビーチ・ボーイズを聞いていたりもしているのだけど、本映画の車内においてはそれらは存在しない。無音であるか、台詞が流れるか、会話がなされるかのいずれかだ。
他にも「どうやら、君、やっかんでいるんだな。ああ、そうとも、大いにやっかんでいるさ!」はまさに家福から高槻に言いたかったことだろう。繰り返しになるが、この映画には回想シーンとモノローグがなく、物理的に起こったことだけが一方向に順序立てて描かれている。しかし、過去に書かれた『ワーニャ伯父さん』の台本が演じられたり、それが過去に吹き込まれたテープを再生することで、時空間を歪めて過去に戻ることができたり、直接的に描かれていない登場人物の心を読みとれる装置として働きはじめる。
行きの道、家福はいつも助手席でカセットテープを聴きながら、それにあわせて台詞を読み上げた。明治時代の日本に舞台を移して翻案したアントン・チェーホフの『ヴァーニャ伯父』だ。彼がヴァーニャ伯父の役をつとめていた。すべての台詞を完璧に暗記していたが、それでも気持ちを落ち着けるために日々台詞を復唱する必要があった。
原作でも『ヴァーニャ伯父』としての言及があるし、会話内での重要なモチーフになっている。物語の筋立てとしては、辛い夜を生きなければいけない家福が伯父のワーニャであり、顔に傷があり娘と同じ年齢のみさきが姪のソーニャであると思われるが、その一方で登場人物の全てを当てはめたり、全く同じストーリーであると見なすことにも意味はない。家福たちの物語は家福たちの物語だ。それでも、『ワーニャ伯父さん』を演じるレイヤーがあるからこそ、この物語の映画世界を多面的に理解する補助線となる。
妄想で役を作り込まないワークショップ
家福の演出方法は独特で、「自分のテキストに集中してみろ」と一切の感情を入れずに本読みを続けていくシーンが描かれる。映画研究会が映画自体をテーマにしたり、演劇ワークショップが演劇自体をテーマにするような自己言及的なドキュメンタリーも感じるが、これは濱口竜介監督が普段から取っている演出方法であったという。妄想的に作ったメソッドではなく実績と確信のあるやり方だからこそ脚本に反映されており、ワークショップの成果が物語的な要請を超えた瞬間をカメラが確かに捉えている。
なぜこのような方法が良いのかについては明言されていないのだけど、僕自身としては「想像で独りよがりの役作りをしてくるな」という話なのではないかと考えている思っている。あくまで台詞のテクストだけをはっきりゆっくりと身体に入れておいて、感情であり人格は相手役の関係性との中で生まれてくるまで待つ(分人主義)。役者としての実績があるほどに、脚本を読んだけで役作りができてしまうのだろうけれど、それは相手を見ていないものになってしまう。公園での稽古シーンでのやりとりで生まれた何かは互いに役を作り込んでからではなし得ない。
そう考えると、テープに吹き込まれた音の声は常に同じテクストを同じ調子で読み上げているのに、家福にとっては毎回違うことを言われて、違うことを返す対話が繰り返しされていることは感動的なものであるとも思いがちだが、このワークショップを考えると、むしろ隘路に入り込んでしまっているのではないかとも思えてくる。相手との関係や動きや会話の中で立ち上がってくる人格はあくまで互いに生まれるものであり、テープという永続的な存在になってしまった音はもう変わることができない。
ラストシーンの意味と消えた傷
正直なところで韓国でみさきが買い物をしているラストシーンの意味を理解するのが難しかった。なぜ韓国なのかはドライブシーンを韓国で撮る予定だったがコロナ禍の影響で舞台を広島に移していることが影響しているのかもしれないし、作劇上はユンス・ユナ夫妻との関係性があるのかもしれない。
結果として広島で撮影できてよかったとも。「被爆地である広島は平和への願いが込められて町が再設計された、町の歴史がこの映画と響き合う」と濱口監督。
— Erina Ito (@erinaito_shiba) 2022年3月21日
観客の反応で映画について再発見しているが、今までで一番驚いたのは「ラストシーンでみさきの車にいる犬は、家福なのか」という問いだったそう
なぜ犬がいるのか、なぜ家福がいないのかについては家福犬化説や家福トランスフォーマー説などがあったが、やはりユンス・ユナ夫妻の影響で犬を飼い始めており、緑内障が進んだ家福は赤のサーブ900ターボを手放す決心をしたのだろう。
また初見時に最大の謎であったみさきの頬の傷が消えていることについて、一時停止して確認したらあくまで目立たなくなっているだけであり、これは「手術をすれば目立たなくなると言われました。でも消す気になりません」に対応する。つまり、家福への罪の告白を経て消す理由ができたということだ。ともすれば、みさきが家福を一方的にケアする構造に見えてしまいがちだが、みさきも家福に癒されており、家福やユンス・ユナ夫妻との思い出を生活に溶け込ませている。
以上までで、『ドライブ・マイ・カー』を観て思ったことをつらつらと書いた。10,000字近くになっても、まだまだ書き足りないことや見逃している視点も多々あるかと思うのだけど、それだけ色々なことを考えて語りたくなる映画であり、他の滝口竜介作品も観たくなった。3時間という長い時間をかけながら途中で回想もモノローグもなくストーリーの都合ではない言葉を発する瞬間の目撃者になるのは新しい映画体験であり、それを巻き戻して一時停止して深く味わえるのもまた配信映画の特権性であり、双方のレイヤーから楽しめるのが本映画であった。