太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『ミセス・ノイズィ』感想〜在宅ワークとワンオペ育児の両立という無理ゲーを覆い隠すノイズを発していたのは誰か

ミセス・ノイズィ

『ミセス・ノイズィ』感想

 映画公開された時から気になっていたが、コロナ下で観られていなかった作品が配信レンタル解禁されたので鑑賞した。

小説家であり、母親でもある主人公・吉岡真紀(36)。
スランプ中の彼女の前に、ある日突如立ちはだかったのは、隣の住人・若田美和子(52)による、けたたましい騒音、そして嫌がらせの数々だった。
それは日に日に激しくなり、真紀のストレスは溜まる一方。
執筆は一向に進まず、おかげで家族ともギクシャクし、心の平穏を奪われていく。
そんな日々が続く中、真紀は、美和子を小説のネタに書くことで反撃に出る。
だがそれが予想外の事態を巻き起こしてしまう。
2人のケンカは日増しに激しくなり、家族や世間を巻き込んでいき、やがてマスコミを騒がす大事件へと発展……。
果たして、この不条理なバトルに決着はつくのかーー?!

 そのタイトルや内容からして2005年頃に話題になっていた「騒音おばさん事件」こと奈良騒音傷害事件がモチーフになっている。英字新聞で報道された時の見出しはまさに「Mrs. Noisy」である。被害者側が恣意的な動画を撮ってワイドショーに渡していた問題やバラエティ番組での揶揄やパロディ。悪趣味インターネットカルチャーの寵児として不謹慎Flash動画やリミックス音楽の隆盛。調停や適切な治療の話から始めるべきだったのに当時はアウトサイダーなおもちゃとしての消費をされていた事を覚えている。

 本映画は舞台を現代に移しているし、事件そのものの真相を再考察をするといった趣旨でもない。そこに描かれているのは家族や隣人と発生し得る現代的なデイスコミュニケーションとそれが急激に世間と接続されうるネット社会についてである。

ワンオペ在宅ワーク&育児の無理ゲー感

 過去に賞を取ったもののスランプ中の小説家である真紀は久々の雑誌掲載に向けて小説を書いているが、夫に育児を頼んでも仕事を理由に外に出ていかれ、残された真紀はワンオペ育児をしながら執筆のプレッシャーや締め切りと戦うことになる。

「仕事が進まず、深夜にやることで体を壊しそう」「仕事と子育てを両立しようとするととんでもないストレスがかかるので、休業か退職せざるを得ないかもしれない。でないと虐待してしまいそう」などの声も上がっていた。

 この無理ゲー感は新型コロナウイルス流行によるテレワーク推進によって鮮明になった。保育園は休園しているが、夫は現場仕事を離れられない。そんな状況でのワンオペ育児と在宅勤務の両立は物理的には可能そうだが神経をすり減らすし、致命的な問題を呼び込むことにもなる。ましてや真紀は小説家であり、原稿に集中してゾーンに入り込めることは特技でもあるはずなのだ。

 案の定で気がついたら娘が家からいなくなっており、朝から布団を叩いていた隣人のおばさんが娘を連れて帰ってきたことで不信感を露わにする。その不信感を肌に感じたおばさんも態度を硬化させており、さらには布団叩きへの抗議や娘の2回目の行方不明によって隣人トラブルが激化していく。

家庭問題の原因を異物に押しつける罪と情緒だけのサポート

 実際、おばさんは変わった人であるし、その同居人のおじさんも挙動不審に見える。しかしながら、娘が勝手に外に出ていったのは子供から目を離したり、公園に行くと約束したのに行かなかったりという家族の問題であるし、小説のスランプは元々だ。そこに分かりやすい異物としての騒音おばさんが入り込む事によって全ての原因を押し付けて本当の問題をノイズに覆い隠す思考が形成されていく。

では 「情緒的サポートだけ頑張れば、妻は満足するのか?」というと、そういうものでもありません。「君のおかげだよ」「僕は幸せだ」といくら言葉で感謝しても、そんな言葉は新婚時代ならまだしも、時がたてば不審に思われるのがオチです。「口ばかり動かしてないで、少しは手を動かしてよ!」と道具的サポートを求められてしまうでしょう(笑)。

 ソーシャルサポートには道具的サポートと情緒的サポートがある。これまでのダメなイクメン像としては中途半端に手を動かす道具的サポートだけで、感謝や共感などの情緒的なサポートが致命的に欠けている点が指摘されることが多かった。しかしながら、本作の夫についてはポジティブで人が良いからこそ、褒めたり、サプライズの祝い酒で喜ばせようとはするものの、結局は妻と娘を置いて働きに出ていくし、仕事仲間と飲んでから帰ってくるような無神経さもある。

女性たちは概ね、話し合いを「目の前の問題(あるいは潜在的な問題)について互いの意見を述べ合い、そのすり合わせを図る行為」と捉えていました。一方の男性には、話し合いを「相手の機嫌をなだめるための行為」と考えている人が少なくありませんでした。

 これもまた相談をうけたら「解決策を提示するのではなく共感しろ」と言われがちであったが、実際的な問題があるなら機嫌を取るだけでは意味がないし、「時間を置く」は状況を致命的なところまで進めてしまう可能性がある。そういった現代的なディスコミュニケーションが続くなかで、「小説家だったら出産も子供も全部を糧にして書くべき」という規範や、「今時の小説は自己プロデュースが必要」といった口車によって、騒音おばさんをモンスターに仕立てた小説を連載しはじめる。

 その小説は事前に勝手にアップされた動画の話題性もあって人気になったものの、編集者や読者からも「キャラクターが一面からしか描かれていない」といった評価を受けており、それこそが本作のテーマであろう。家族の問題を覆い隠す異物という観点に立つと澤村伊智『ぼぎわんが、来る』を想起するが、基本的には悪意がない。それでいて確かに不気味な騒音おばさん同居人のおじさんが『つけびの村』になってしまいかねない緊張感もある。

ノイズを発していたのは誰だったのか

 ベランダはプライベート空間でありながら、音が漏れたり、ビデオや写真を撮られたりされかねないパブリック空間でもある。騒音おばさん vs 売れない小説家のプロレス公演はFlash動画とはまた違った拡散をしていき、ネットで拡散されたものは本人でも取り消せない。そこから先の展開は伏せるがオドレイ・トトゥ主演の『愛してる、愛してない...』の構造に近しいものを感じた。そこまでは予想しやすいがニュアンスはまた違う。

ヒット作『アメリ』でお馴染み、オドレイ・トトゥ主演で贈るポップで奇抜な衝撃のストーリー。サスペンスに富んだ三部構成に加え、絶妙な台詞回しに彩られたストーリーが魅力。“恋がしたい、両想いになりたい”女の子のストーリー。

 農家で少し曲がったきゅうりを調整してまっすぐにするシーンがでてくるが、これは家族や隣人同士の距離感を暗喩している。この少し曲がったきゅうりを直す前に廃棄しろと言われるようになってしまう時代への変化。

 実際問題として僕自身もお隣さんへの挨拶をしていないし、周りからもされていない。互いに無関心であることこそがリスクを避けることであり、仮に問題があっても当人に言うよりも管理会社に連絡したり、下手したらブログに面白おかしく書いてしまうかもしれない。

 しかしながら、相手の事情を知っていれば受け入れられたことも、頭ごなしに否定したり、頭を超えた世間の問題にしていけば話はこじれるばかり。本当に必要なのは各人同士の対話であり、隣人への挨拶だったのかもしれない。確かに朝に布団を叩かれたのはノイズィであったが、自分のことしか見えていない人々の決めつけや情緒だけのサポートや焦りや怒り悲しみやワンオペ育児といった諸々こそが対話を阻害していくノイズであり、モンスターだったのではないか。

 特に夫婦間のディスコミュニケーションについて、ある程度までは状況や価値観がアップデートされた後だからこそ女性が切実に感じているであろう問題に切り込んでいく面白さがあった。少なくともリモートワークと育児の相性が良いなんて少しでも思っていたのであれば、その幻想をぶちのめすためにも観ておいた方がよい映画であると感じた。