太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

高橋ユキ『つけびの村』感想〜平成の八つ墓村実話ルポに現れる 「10年後に話す真相」のリアリティラインの眩暈

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

つけびして 煙り喜ぶ 田舎者

 本書は2013年に山口県にあるわずか12人の住民のうち、限界集落で一夜にして五人が殺害された山口連続殺人放火事件の核心に迫るルポタージュである。

焼失した女性A宅の隣家には、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と白い紙に毛筆のようなもので川柳が記された貼り紙があり、県警は7月22日午後、殺人と非現住建造物等放火の疑いでこの家を家宅捜索するとともに、姿を消した当時63歳の住民の男Hを重要参考人として行方を捜索した。

 一見して金田一耕助八つ墓村のような舞台装置と付け火による消失。そして川柳のような犯行声明。が2013年の現代日本に揃っているという時点でリアリティラインの奇妙な揺らぎを感じてしまうが、このリアリティラインの揺らぎこそが、この事件の核心であると感じた。

 「リアリティライン」とは、現実そのものではなく物語における「世界観」に対するリアリティの事。本書は実際に起きた事件のルポタージュとして「現実=世界観」であるという当たり前の前提がありながら、だからこそ凄惨な読後感を残す。ミステリー小説や実話風怪談という世界観の中なら安心できたのに、この川柳は『獄門島』における「きちがいじゃがしかたがない」のような解かれることを期待された謎ではない。

妄想性障害による信頼できない語り手

 結論から言えば、既に犯人として起訴され死刑判決を受けている保見光成は妄想性障害の精神鑑定を受けており、拘留中の面会や手紙にも重度の妄想を伺わせる。つまり、彼の証言は「現実≠世界観」のリアリティラインに基づいており、端的に言えば「信頼できない語り手」である。

 保見は事件そのものについても「証拠の捏造」を主張するようになり、上告審判決直前には「絶対に謝らない。自分の方が被害者なのだから逆に謝ってもらいたい」と言い放つ。一切の反省や謝罪どころか自身が殺害したという認識すら失われており、事件の真相はどこにも残らないまま幕引きがなされようとしている。刑法39条の心神喪失無罪を意図するほどに弁護側としては妄想を悪化させるインセンティブさえ疑われる。

 山中で発見されたICレコーダーには「これから自殺する。周囲の人間から意地悪ばかりされた。田舎に娯楽はない。飼い犬を頼む」と残されており、悪い噂や嫌がらせへの報復が動機であると目されているが、「本当に悪い噂を流されたり、嫌がらせを受けていたのか?」については物的証拠も残っておらず、一方的な妄想の可能性さえある。

噂が殺したのは限界集落の五人ともうひとり?

 だからと言って「全てが保見の妄想の世界の出来事だったのだ」と断ずる事はできない。現場での聞き取りを続けるほどに「悪い噂が流されていた」という点については確信めいたものが出てくる。一般的な犯罪ルポタージュでは犯人の生い立ちに遡って理由を探るものが多いのだけど、村そのものに軸足が移っていく展開に引き込まれる。

 事件にいたるまでのあらましを想像すれば、都会から限界集落にUターンしてきた保見が地域住人と馴染めず、軽口めいた悪い噂を流された事をきっかえに恫喝やら暴力やらに至って、より孤立を深めていく中で妄想性障害を発症。どのような出来事も酷い嫌がらせに結び付けてしまう関係妄想から怨恨を募らせて事件に至った。

 つまり、噂が直接的に殺したのは死刑判決を受けた保見自身であり、限界集落の五人は間接的に噂から殺されたのではないかと思えてくるが、それこそが部外者に理解しやすい物語として作りあげられた「現実≠世界観」のリアリティラインにあるものなのかもしれない。自分の見立ては「ひぐらしのなく頃に」の雛見沢症候群にひきづられすぎている。

「10年後に話す真相」のリアリティラインの眩暈

 本書では、丹念な現地でのインタビューを続けていく中で、村の生き字引と呼ばれる村民が「10年後に話す」と言っていた真相を聞き出す事に成功する。その内容は是非本書を読んでいただきたいが、確かにある意味では全てが繋がってくる凄みがある。そして全てが繋がっているように感じる瞬間こそが関係妄想の症状である。リアリティラインの揺らぎ。

 有料 note としてバズった本書の前半部分に相当するルポタージュが本書の刊行と追加取材に繋がった経緯であったり、著者が本書の取材中に並行して木嶋佳苗事件の取材を受ける様やら、レンタルなんもしない人が唐突にでてくる場面やらもルポタージュに含まれていて、同時代的なライブ感と同じ時間軸に存在して往来する限界集落での出来事とのギャップに眩暈のような感覚を覚える。そもそも、自分は「現実=世界観」にいるのだろうか。