太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』感想〜万人の万人に対する象徴闘争から覚醒させられる「編集権の簒奪」というチートスキル

映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ (光文社新書)

映画を早送りで観る人たち

なぜ映画や映像を早送り再生しながら観る人がいるのか――。なんのために? それで作品を味わったといえるのか? 著者の大きな違和感と疑問から始まった取材は、やがてそうせざるを得ない切実さがこの社会を覆っているという事実に突き当たる。一体何がそうした視聴スタイルを生んだのか? いま映像や出版コンテンツはどのように受容されているのか? あまりに巨大すぎる消費社会の実態をあぶり出す意欲作。

 本書は『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)』から始まった早送り論についての、派生記事のとりまとめや書き下ろしを含んだ総括である。コンテンツの消費者にも、脚本家にもインタビューしており、また博報堂DYMPのメディア環境研究所やマーケティング調査結果などからの示唆なども入ることで、印象論を超えた仕上がりとなっている。つまり、面白かった。改めて本書を読んで思ったことを書いていく。

タイトルの「映画」と「人たち」という錯誤とフック

 本書のタイトルは「映画を〜」であるが、話題になるのは『鬼滅の刃』や『愛の不時着』などのTVドラマ、TVアニメなどを含んだ映像作品全般であり、そもそも圧縮された情報を提示して早送りしづらい映画と間延びや繰り返しの余地が入りやすいTV作品を同列に語るのは無理があるのでないかと思われる。調査結果によると倍速で見たい動画コンテンツのランキングは「ドラマ」「ニュース」「バラエティ」ときて、やっと「映画」だ。次点に「Youtube」が続く。

 また一見、若者論のようにも読めるが、あくまで映画を早送りで観る「人たち」であり「若者たち」ではない。実際、20歳から69歳で倍速視聴を経験している人は34.4%で30代にも30%以上浸透していることだ。ドラマやオーディオブックなどを倍速視聴しているのは30代以降の余暇が少ないビジネスパーソンのがイメージしやすいし、新聞や雑誌から自分に必要そうな部分以外は読み飛ばすことにも躊躇がない。逆に若者は新聞や雑誌をあまり読まない。

 それでも倍速視聴したい動画コンテンツの4位に「映画」が来るのは衝撃的だし、それができるのは若者達だけのような気もしてくる。尺を埋めるために間延びしがちなドラマや、情報摂取が目的のコンテンツを倍速視聴することには全く違和感を覚えないが、映像表現そのものを楽しむ映画については納得ができず、動機を知りたくなるフックとなっている。映画を早送りする30代以降の存在についてはクロス集計可能な調査が欲しいところである。

映像コンテンツを早送りしたくなる三要素

 映像コンテンツを早送りしたくなる三要素として以下のような事物が挙げられている。

  1. サブスク配信サービスやタイムシフトなどによる映像作品の供給過多と定額化
  2. セリフやテロップですべてを説明する映像作品が増えた
  3. 映像作品に武器としての有用性を求めるコスパ・タイパ志向

 そもそも本書の対象は「映像作品」であって「映画」には限らないという前提ではあるものの、映画を含んだすべての映像作品が貴賎なく横並びの価値を持った「コンテンツ」として消費されていくようになり「たかが映画」になっている側面も炙り出されていく。そこには定額化によるサンクコストの低さと映画としての作り自体の問題、そして目的意識の違いがある。

 映画館やDVDで特定の映画を観ようと思えば、その映画のためだけに対価を払うのだからじっくり鑑賞しようとするものだが、定額サービス内でお金を払えば無料となれば、どんなに雑な視聴体験をしても金銭的な損は感じにくい。逆に必要なコストは時間であり、お金をかけないからこそ時間というコストが際立ってくる。映画がつまらなかった時に思うことは「金返せ!」ではなく「時間を返せ!」というタイパ主義となる。

 この「つまらない」理由として挙げられやすくなったのが、「意味がわからない」ということらしい。長回しの沈黙や小道具から類推されえる心情について、読み取ることができないからこそ、退屈で情報量がないから見る必要のない作品に思えてしまう人々の意見が出てくる。

もちろん、この逸話自体を疑うこともできるし、同じようなことが『大豆田とわ子と三人の元夫』にもなされていたのかは分からない。それでも、別れの言葉であれ、仕事上の問題であれ、敢えて決定的なことを描かない余白にこそ時空間を折り曲げてオルタナティブファクトを遡って生成しえる仕掛けがある。田中八作とのあり得たかもしれない熟年夫婦生活やコロッケを手掴みで食べるマーさんと死んだ母親の関係のように。

 本書においても『大豆田とわ子と三人の元夫』の例が取り上げられていたが、この作品には「敢えて決定的なことを描かない余白」にこそ膨大な情報が詰め込まれている一方で、字義通りに受け取ることしかできない場合は「何がおこったのか分からない情報量の少ない退屈な作品」にもなり得る。『花束みたいな恋をした』における「今村夏子のピクニックを読んでも何も感じない人間」だ。これに対抗するためにか、セリフや画面上のテロップや過剰な演出で全てを説明し、視聴者に想像や解釈の余地を残さない映像作品が増えており、その結果として倍速視聴しても理解できる程度のコンテンツが増え、明文化されていない演出を読み取る力はますます落ちていく構図にある。

 そして最後の要素として、多くの視聴者が映像作品に対して求めているのは、「有用性」であることにシフトしていったことが挙げられる。そもそも映像作品は「楽しむ」ためだけではなく、「コミュニケーションのため」や「知識を増やすため」といった具体的な目的のために視聴されることが増えている。このような視聴者にとっては、会話になるクリシェさえ覚えておけばよく、効率的に映像作品を消費することが求められる。そのため、情報量の少ない(と感じてしまう)余白部分や既知の内容、不要な情報のたびに早送りするのは、時間を節約し、効率を上げるための必然的な手段となる。

コミュニケーションかけ金としての映像コンテンツ

「忙しいし、友達の間の話題についていきたいだけなので、録画して倍速で観る」

 「有用性」の要素に「コミュニケーションのため」が挙げられるのは奇異に感じるかもしれない。しかしながら、本書においても度々挙げられるのは「話題のため」や「コミュニティのおすすめを見ておく」といった要素であり、コミュニケーションのコスパを上げるためにもこそ、同じ映像作品を見ている必要性が出てくる。

「僕の会社と契約して○○をしようよ!」なんて締めが使われるライトニング・トークはたくさんあったし、アイスブレイクと言えば「今期は何が注目ですか?」みたいな。仕事先で野球や政治や宗教の話などできないし、かといって比較的若い担当者の方はゴルフや麻雀やカラオケなんかも固辞されてしまう。なのでラポールを形成するのにあたっては、アニメや漫画やゲームの話が案外有効になることも多いのだろう。

 実のところ、「流行りのアニメ視聴はコミュケーションためのものになった」という話は僕自身が10年前に書いていて、新たなオタクの生態として評論家などにも取り上げられたことがあった。当時は「進研ゼミ」を提唱して、自分の嗜好とは切り離して話題(試験)に出やすい順にアニメを見ておいた方が確率論的に有利だし、仮にコミュティ側に不具合があってもダメージを最小限にして損切りできるから合理的という話だったのだけど、そこに「早送り」という直接的なコスト(≒時間)を圧縮する手段が加わった形だ。10年前にも「アニメダイエット」という「ながら視聴」や速聴英単語のような教材はあり、映像作品をスムーズに早送り視聴するのは技術的にも感覚的もまだまだ当たり前ではなかったが、それらが揃えば自分もやっていただろう。

 話題にするためだけであれば、思い入れが少ない見方をしていた方が悪口を言われてもダメージが少ない。それは「コスト」なのかと考えると少し違うと思っていて、ブルデューが『ディスタンクシオン』でいったところの象徴闘争の「かけ金」のがしっくりとくる。象徴闘争とは自分が持っているハビトゥスや知覚様式、あるいは自分の価値を押し上げるために行われる価値観の押し付け合いであり、「かけ金」と呼ばれる象徴的な利得をめぐって行われる。若者のオタクと呼ばれたい欲にも関連する。

 「かけ金」が「賭け金」なのか「掛け金」なのかはじぶんの中でも結論がついていないが、原語の意味からすると競馬における「ステーク」(参加供託金)であり、各々でステークを持ち寄った「ステークス」(賞金)の再分配比率の期待値を問題としている。そして「ステークス」をコスパよく得る方法として、自身の持ち寄るステークを他者からはそれと分からないように少なくしつつ、かつ他者には多くのステークを出してもらって「ステークス」に占める自身の賭け金の割合を下げながらも、分配金の期待値を増やすようなチートがもてはやされるようになっている。

 そういう意味では情報商材等に関連する「情強」による節税やグレーな補助金申請などが挙げられるし、アレオレ詐欺もそうだ。こんなに残酷な万人の万人に対する闘争が自然状態となった世界でできるのにやらないのは「情弱」であるという意識表出の一つに過ぎないのかもしれないし、勝ち馬や覇権に乗りたい心理は昔から指摘されている。自分の価値を押し上げるための概念的な利得は得たいが賭け金は少なくしたい。コスパではなく、賭けの期待値なのだ。

「編集権の簒奪」というチートスキルは書き文字変換と共に

 OpenAIが提供する書き起こしAPI「Whisper」を使い、配信済みのポッドキャストの内容を文字起こしして公開する。テキストを指定してその部分から音声を再生することもできる

 ところで、はてな創業者の id:jkondoPodcast の書き起こしサービスをローンチしている。特に技術系やベンチャーの系のPodcastにおいて大きな示唆が得られる話がされることもあるが、それは1時間番組のうちの5分間ぐらいのこともあって全てを聞いていくことはなかなか叶わない。なので文字起こしされたサマリーを読んだり、単語検索してから再生する番組や時間軸を細切れに再構成しつつ場合によっては倍速再生してチェリーピッキングする体験を快適に感じるようになってきている。何も得るつもりがない雑談番組も好きだけど。

 これは番組の編集をユーザー側で行うことであり、番組制作ディレクターの最大特権である「編集権」を簒奪することにもなっている。このようなオレオレ・ディレクターズカットなんて音声作品であれ映像作品であれ許されざることのように思っていたが、本や雑誌や新聞であれば目次だけ読んで章ごと読み飛ばしたり、速読したりは当たり前のことであった。『読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)』だってある。

 ここで重要なのは早送りされがちな音声作品には書き起こしがあるし、映像作品には字幕が入っている。つまり、書籍のようにテキストへのメディア変換がされていることが前提となっており、テキスト変換というブリッジさえあれば再編集権をユーザー側が簒奪しても良いという暗黙の了解があるのではないかとも思われる。それは過渡期のものなのかもしれないが、思えば古くからの仕事においても「議事録」や「テープおこし」という文字列へのメディア変換処理は有効な時短処理であった。

 字幕や書き起こしがAIによって自動的にできるようになり、AIに調査や要約をさせることまで可能になっていく中では「早送り」もまた過渡期のかけ金節約方法なのかもしれず、さらにコスパやタイパを追求するチートスキルが開拓されていくだろう。できるのにやらないことを情弱と責め立てる残酷な世界においては、「編集権の簒奪」というチートスキルに覚醒せざるを得ない。その結果としてコスパよく産み出されていくのが、グルーミング的なコミュニケーションというのはまさにドラッガーのいうところの、「元々しなくても良いものを効率よく行うことほど無駄なことはない」だとも思うけれども。