太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

風間一輝『地図のない街』感想〜地獄の断酒の中で取り戻していく未来と名前が描かれた地図

地図のない街 (ハヤカワ文庫JA)

地図のない街

雪の夜、チンピラ二人組にボーナス袋を強奪され、北岡吾郎の平凡なサラリーマン人生は終わりを告げた。彼は相手を叩きのめしてドロップアウト、いつしか山谷に流れついていた。自由気儘なその日暮らし、今では立派なアル中だ。そんな彼が、同じ山谷のアル中で、連続行き倒れ事件を追うライターの初島から誘われ、一念発起して断酒に挑むが……謎の連続怪死事件を縦糸に、男たちの勇気と友情を感動的に描く、地獄の断酒小説。

 『地図のない街』は『男たちは北へ』でハードボイルド自転車旅小説という新境地を開いた風間一輝のハードボイルド断酒小説。チンピラに襲われたことを「踏切台」にしてアル中ドヤ暮らしにドロップアウトした元サラリーマンが友情のために地獄の断酒を試みる。

酒を呑み過ぎる傾向のある すべての人々に捧ぐ──自戒を込め

 個人的にも断酒ドヤ街暮らしを経験しているが、その背後にこの作品の影響がなかったと言えば嘘になる。むしろウィスキーを飲ませる効用のが高かったかもしれないけれど。

宇都宮を舞台にしたハードボイルド短編小説と導入部

 平凡なサラリーマンだった北岡吾郎は宇都宮の繁華街でチンピラ二人組に襲撃されてボーナスを奪われる。警察や病院に届けるべきだと理性では分かっているのに自分自身の手で屈辱を晴らしたいという気持ちが募っていき、二人組がいたバーで老獪なバーテン村雨泰次やホステスの村雨零子から情報を聞き込む。

「あるさ」私はバーテンにではなく、私自身に言いきかせた。「警察に届けたのでは、彼らと私との問題が解決されない。社会的な解決なんてどうでもいい。私は、私と彼らとの問題に決着をつけたいのだ」

 ここに吾郎の「頑なさ」が現れる。ジャンルとしての「ハードボイルド」の定義には色々とあるが、「頑なさ」が必須の要件であると感じている。「ハードボイルド」とは元来「固茹で」を意味しており、やわな外的要因や打算で心が崩れてはいけない。

 復讐においてはボクシングなどのバックグラウンドや武器の調達が描かれていくのが一般的であるが、吾郎のそれはサッカーであり、安全靴。

「サッカーですか。道理でね、引き脚のない妙な蹴りだと思った」

 不意打ちのボレーシュートでお金を取り戻せたが、その蹴りは素人のチンピラに対してだから効いたものだ。バーテンから事の顛末を見守るように頼まれていたヤクザの国分に諭され、報復されないうちに宇都宮を出ることを勧められる。

 人生をやり直すだとか、第二の人生に踏み出すだとか、自分の可能性を追求してみるだとか、そうした大袈裟な目的はない。
 ただ、私にまとわりついている 煩わしいものを切り捨てて、どうなるかわからないが、いままでと違った生き方をしてみることにしただけのことだ。強いて言うなら、将来のためにではなく、いま現在のために生きてみたい、と思っている。

 もとより吾郎は平凡な暮らしを続けるつもりもなく、この復讐自体がドロップアウトのための「踏切台」のようなものだったと述壊しながら時は流れる。以上までが宇都宮を舞台にしたハードボイルド短編作品として完結しながらも吾郎の頑なさや仕事や家族に対する執着の消失などが描かれる。

スターシステム自体が伏線になる構造

 ちなみにバーテンの村雨泰次やヤクザの国分は『漂泊者』で言及および登場するキャラクターであり、国分が宇都宮に行く顛末も『漂白者』で語られている。

売れない小説家、流行遅れのイラストレイター、自転車狂のグラフィック・デザイナー、悪徳私立探偵、アル中の画家……。名前は〝しんしそう〟だが、一人として紳士などいやしない。

 風間一輝の描く作品には横浜ヤクザの三浜組と池袋にあるボロアパート深志荘の住人を中心としたスターシステムがあり、様々な作品でオーバーラップする。それ自体は一種のサービスだろうが、『地図のない街』においては重要な伏線になっている。

 小説内においてスターシステムの人物だと認識できるのは、それと分かる特徴的な描写か名前が明示的に叙述された時である。風貌や声優を同じにしていかざるを得ない映像作品や音声作品とは根本的に異なる位相にある。

流れ着いたアル中ドヤ街暮らし

 「いま現在のために生きてみたい」と思いながらも、その顛末がドヤ街になってしまう感じはすごく分かる。働く量をセーブしながらその身ひとつで生きていこうと考えた時にドヤ暮らしは本当に効率が良かった。

 当時であってもライター業やWebエンジニア業などでネット納品をしていれば現場に出なくてもそれなりの収入が得られたし、財布とノートパソコンと携帯電話と電子書籍端末の中にお金がでてくるカードと仕事道具とエンターティメントが詰め込めたので、ドヤ街や温泉街などに拠点を移していく働き方にハードルがなかった。

 短期の海外移住すら選択肢にあったぐらいだ。現在は新型コロナウィルス流行でテレワークの選択肢は増えたが、移動しにくくなってしまった。衛生的な問題が多いドヤに連泊するなんてのも難しいだろうし、「その日暮らし」に沈没し続けるわけにもいかないと思う時もくる。

 ともかく、最低限の仕事と生活費で暮らしていけること自体は素晴らしい事なのだが、時間を持て余すようになると朝から酒を飲む生活になってしまいがちなのも人間だ。酒には苦痛なく翌日までの過程飛ばしをするための「タイムマシン」のような効用があった。

地獄の断酒会というブロマンス

「いや、そういうのんとちゃいまんがな」初島は言いにくそうに言う。
「わいは、その、 素面 で、あの公園へ行ってみたいんや」

 山谷のことを調べているアル中フリーライター初島肇(ピンちゃん)は、酒を抜いた状態で清川一丁目の公園に行ってみたいという「夢」を語る。山谷では不審な連続行き倒れ事件が起きているが、調べていくほどに危険に近づくと感じた吾郎はピンちゃんを事件に首を突っ込ませないためにも、同じくドヤ友達の木沢完(キリさん)と共に断酒会を提案する。

 初島は、初島の初と、名前が 肇 でもあるので〝ピンからキリまで〟のピンちゃんというわけだ。
 〝ピンからキリまで〟のピンは、花札の最初の札、一月の松。キリは最後の札、一二月の桐だから、ギャンブル狂の多い山谷らしい仇名である。

 断酒の理由として、吾郎自身としても宇都宮で会ったホステス村雨零子への想いが語られてはいるものの、やけに薄っぺらい。これはピンちゃんとの友情に対するある種の照れ隠しのようにさえ思える。

男性同士の友情の基本としてはフィジカルトレーニングを共にすることがよく見られる。これはテレビゲームや楽器の演奏、買い物、パイプを嗜む、暖炉脇で語らう、映画を見る、釣りをする、キャンプをする、その他のスポーツ、ギャンブル、酒を飲みに行く、そしてサイケデリックな環境に身をおくことなども含まれる。感情の共有(女性同士の友情とも共通する)も活動の一つとされる。

 ブロマンスとは、「ブラザー」と「ロマンス」を組み合わせた言葉で男性同士の友情。「断酒会」はまさに肉体的、身体的な苦痛を伴う共有活動であろう。安全で終わったら爽快になるはずの苦痛はサウナにも通づる。それでいながら同性愛的にならないように異なる夢を明示的な理由として挙げている。

 吾郎は自分の本当の動機を隠す癖がある。宇都宮でしたくなったのは復讐ではなくドロップアウトだし、断酒会の成果としてピンちゃんを危険な目に合わせないようにしたかったわけでも、村雨零子に会いたかったわけでもない。本当はピンちゃんの夢を叶えるために、地獄の断酒会を続けている。

断酒のために必要なのは「早寝遅起き」というリアリズム

 断酒のやり方や禁断症状の描写がやけにリアルで怖くなる。特に重要なのは「早寝遅起き」が語られることだ。

ビール1リットルだとか、チューハイ3杯ぐらいであれば大丈夫なのだけど、そこから先は猛烈な眠気に襲われて変な時間に起きては頭が痛くて二度寝もできない状態になる。それが午前二時とかに起こるのだから次の日に影響が出るし、死にそうな状態で丸まるのは惨めだ。ラストの一杯…あれが効いたなと頭痛を抱えながら後悔する午前二時。

 僕自身が断酒しようと思ったのはこの症状。眠りが浅くなって酒を飲んでも飲まなくても早すぎる時間に起きるようになってしまう。また酒を飲めば頭痛がおさまって寝られることも分かっているが、その日も酩酊状態になってスパイラルが続く。

 とにかく何もせずに朝を迎えられるように丸まっているしかないが「早寝遅起き」を無理矢理にでも続けていると酒が抜けきって急に楽になる日がくる。結局のところで、何も入れずに寝ているうちに色々なものが治癒治していくのが人間なのだろう。

 そして断酒中なのにノーカンとして飲む起き抜けのビールの美味そうなこと。断酒小説なのに酒が飲みたくなってしまう危険性がある。おそらく幻覚なども著者自身が直接経験したことなのだろう。とにかくアル中描写のリアリティがすごい。確かにミステリー小説が進行しているのに「地獄の断酒」描写がメインになっていく構成がこの作品の良い意味での奇妙さを際立たせる。

ドヤ名とクワトロ・バジーナ

建て前は本名で登録することになっている。しかし住民票ならともかく、ドヤ証明で本名か偽名かは判断できない。だから偽名が平然と罷り通るが、ドヤで名乗った名前でなくてはならない。だから山谷では、偽名をドヤ名という。

 ゴロさん、ピンちゃん、キリさんとあだ名で呼び合い、それが本名に根ざしたものなのかも分からない関係。ちなみにゴロさんがゴロさんなのは「吾郎」だからではなく、公園でゴロゴロしていたから。ハンドルネームのように運用されるドヤ名だが、ドヤにおいてはドヤ名のが絶対である。

「たぶんな」木沢は煙草を捨てて言った。「 盗られたんだろう。手帳と一緒にな。少なくとも、三人の死体から共通して消えている物は手帳だけだ。ここの警察は、そんなことは気にもしないが、初島は前のことがあるからいやでも気づいたんだ」

 「手帳」とは日雇労働求職者給付金の被保険者手帳のこと、これを発行するためには、住民票が必要だがある時期までは偽名のドヤ証明さえあれば取れた。つまり、偽名の身分証明書が発行できる時期があったのだ。このことが連続行き倒れ事件にも大きく絡んでくるが、最大の衝撃はキリさんの素性であろう。

 池袋のマンション。イラストレーター。自転車。「キリ」さん。『男たちは北へ』で出てきた単語が羅列されてきたことの意味を知る。果たして彼こそが前作主人公の桐島風太郎なのであるが、本名を明示されるまで確信が持てなかったのが正直なところだ。

 繰り返しになるが小説内においてスターシステムの人物だと認識できるのは、それと分かる特徴的な描写か名前が明示的に叙述された時である。前作の主人公が出てくる点では『機動戦士Ζガンダム』のアムロ・レイを想起するが、むしろクワトロ・バジーナを名乗ってサングラスをかけていたシャア・アズナブルであろう。

 「頑なさ」を象徴するハードボイルドさも国家陰謀や過酷な自転車旅と戦った空手家のキリさんに移っていくのは良し悪しではあるが、ゴロさんはアル中の元サラリーマンだ。引き脚のない妙な蹴りしかできない弱さと友情にこそリアリティラインがある。

アル中三銃士と三人の行き倒れと三つの理由

 この作品内では「三」という数字が繰り返される。断酒会を決行する三人。連続行き倒れ事件の三人。事件に関わるヤクザ三人。無縁仏のになる三つの理由。ドヤにくる三つの理由。大体のことは三人でできるし、三つの理由で説明できる。

 それよりも人数が増えてしまうと早々に脱落して無理やり酒を飲ませる存在が出てくるし、余計なこじつけが混じってくる。それよりも少ないと相手のことが気になりすぎたり、抜けが出てくる。

壮絶な女子会を俯瞰で眺めたり、影響を与えていく弱い男達もまたビクトリア湖で適者生存競争を煽る舞台装置であり、私たちのような無敵の二人組に打倒されるべき存在であると栄利子に喝破される。逆に言えば、その仕組みを操る「大きなもの」を倒すためにこそ我々は「無敵の二人組」にならなければいけないのだ。

 無敵の二人組には危うさがあるが、三人組には強固さがある。しかしながら、三人組にも誰か一人がかけてしまった時の脆さを内包している。その喪失感は家族にも村雨零子にもなかったものだ。

地図のない街、地図のない部屋

 『地図のない街』というタイトルは奇妙だ。『地図にない街』なら分かるし同名作品が沢山あるのだけど、この街には地図がない。

 だが、この街に住む大多数の者は、一カ月、一年、一〇年と住みついて、生きて出ることはまずない。様々な理由から、出たくても出られないというべきかもしれない。流れ着いたら、この先のない街。ほかに行き場のない者。
 そんな街と人々に、もう地図は必要でない。必要としないものは、災厄以外はすべてなくなる。もしかしたら、人間にとって地図とは未来の一部なのかもしれない、と初島はいっていた。

 この文章を読んで朝から缶詰をツマミに酒を飲んで寝転びながらぐるぐる回る天井を眺めているか、キーボードを叩くだけの時間を過ごしている日々を思い出した。フィリピン移住をした人も言っていたが、ドヤにも「沼」のような効果がある。流れ着いたら、この先のない街、もう抜けられない沼。

 そんな街に地図なんて必要なくなるという点において「地図のない街」なのだと理解しつつも、自分の部屋に独りで引きこもってテレワークを続けてい現在の状況を想起する。リモートで仕事をしてハンドルネームで会話して通販やネットサービスが充実していくおひとり様の老後。流れ着いたら、この先のない部屋、もう抜けられない沼。未来と本名が描かれた新しい地図が作られる日はあるのだろうか。