太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ピエール バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』感想〜読書感想という書物と書物の外側にある実と虚の皮膜

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法

本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ――大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス文壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。ヴァレリーエーコ漱石など、古今東西の名作から読書をめぐるシーンをとりあげ、知識人たちがいかに鮮やかに「読んだふり」をやってのけたかを例証。テクストの細部にひきずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!すべての読書家必携の快著。

 以前の書評で『映画を早送りで観る人たち』(流)を取り上げたが、実は「早送り」なんてのはまだ誠実で、読んでいない本について堂々と語ることが横行している。僕自身もクリシェの原典を読まず多用していたことがあるし、流し読みでチェリーピッキングをしているのもしょっちゅうだ。

 ブログに長文感想を書いているのに2回目に読むと初めて読んだ章が足されているかのように感じてしまうことすらある。時間も体力も有限なので仕方がないが、それでも感じる後ろめたさについて、読書にまつわる「偽善的規範」として以下の三つが挙げられている。

  • 読書義務
  • 通読義務
  • 本について語ることに関する規範

 すなわち読書は神聖な行為であり、全てを隈なく読む必要があり、ある本について語るのであれば通読は必須であるという観念だ。しかしながら、ある本について語るために本を読んでおく必要はないし、何なら読んでいない方が雄弁かつ意義深く語れることすらあるというのが本書の主張である。著者は文学を巡るパラドックスについての書物を多く出版している精神分析家。「読んでいない本を語る」というテーゼも実にパラドックス的だ。

「読んでいない」にも色々とある

 「読んでいない」と言っても色々とあって、ある本について語るのであればタイトルや著者名や帯や表紙の図版やキャッチコピーなどは目に入っていることがほとんどだろう。実際問題として、それだけで済むような本も沢山ある。特に自己啓発書なんかはタイトルが9割だったりもする。

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)

 読んでいない本を堂々と語りたいと言えば、『バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)』(流)であるが、この「読破したっぽいフンイキ」として「タイトル」や「名言」の引用(主にWikipediaで調べた)が挙げられる。SF作品の邦題はタイトルだけでも魅力的だし、名言はそれだけで何かを理解した気にさせるという点でその書物からも十分な情報を得ているとも見ることができる。

 その次の段階として、「目次を中心にざっと流し読み」があり、別の観点としてはAmazonのレビューやブログ記事などの「人から聞いたことのある本」が存在する。AIに要約してもらうのも手だろう。本書ではその本をどのように読んだのか「正直に」申告されている。

<略号一覧>
<未> ぜんぜん読んだことのない本
<流> ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
<聞> 人から聞いたことがある本
<忘> 読んだことはあるが忘れてしまった本

 本書で注釈される参考文献にこんな略号がつけられているのは皮肉が効いているが、逆説的に誠実であると思わせてしまう。僕自身としても『100 de 名著〜』などの解説本からの孫引きも多々あり、その場合に(聞)と正直に申告するのはなかなかしんどいが、本稿では正直に記載することとしよう。

 ある本についての語られる際に、その本を読んで思ったことなのか、Youtuberなどの他人の感想をなぞっているだけなのかの判断は非常に難しく、ある種のチューリングテストや中国語部屋問題が発生する。そもそも読んだところで一言一句は覚えていないし、全てを理解できるはずもないのだから「読んだ」と「読んでない」には実と虚との皮膜の間にある。

読書のゲーム実況的アプローチ

 「読んでさえいれば語れる」というテーゼにも嘘があって、たとえばこのブログ記事を書く際にもざっと読んでから、他人の書評も参考にしながら語りたいポイントをリストアップして必要な部分のみを読み直している。正直に言えば、この読み直し工程でやっと論旨を理解できることも多い。

 肝は、ゲーム実況の視聴者はゲームをしないでもゲームを楽しめるという点だ。ビデオゲームとは基本的に「自らプレイする娯楽」だが、ゲーム実況の視聴者は上手いプレーに見惚れ、流麗なトークを聞くことで満足を得る。その意味では、スポーツもしくはeスポーツの観客と同じ。自分でスポーツはしない。しかし観て楽しむ。
 映像視聴についても、同じ世界観が適用できるのではないか。
 作品を主体的に鑑賞して解釈するのは「観るプロ」に任せる。「消費者」たる自分たちはプロの解釈や考察を聞き、観るべきポイントを先に教えてもらう。美術館や歌舞伎の音声ガイドのようなものだ。その上で安心して観る。

 『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形 (光文社新書)』(流)に興味深い指摘があったが、このようなゲーム実況的アプローチは読書体験においてこそなされてきた側面がある。学校では現代文の断片から「正解」を読み取るクイズを訓練し、教科書に書かれた評価や歴史をもとに読んでいない本の作風を知識として蓄えている。三島由紀夫の本を読んだことはないが、逸話や書名は知っている。これは「読書実況」ともいうべき書物の外側の装置が作り出していく体験であろう。

 明記はされていないものの、読後の余韻において「賢明なる読者諸君には既にお分かりだろうが」という江戸川乱歩の文章を強く想起させるようにも思えたが、まずはリドル・ストーリーという構造に気付かないで「『ピクニック』を読んでも何も感じない人間」になるグラデーションがある。

 読書をエンタメとして楽しむようになっても「胸糞」「どんでん返し」などのネタバレのタグ付けを歓迎するし、最大のネタバレである「面白い」をブックガイドやYoutuberに求めている。またSNSで人気になるハイコンテクストな映像作品や漫画や小説には「読み手」によるネタバレのアシストといった外部の語りが不可欠な存在となっているようにも感じる。

 評論やネタバレを読んでからのがその作品を深く味わえる傾向は絶対にあって、2回目以降は積極的に評論やネタバレを読んでからという行動を1回目からしちゃいけない絶対的な理由はそこまでない。

書物自体と書物の外側にある皮膜の間

 われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合<遮蔽幕としての書物>でしかない。エーコの小説の例は、本書で挙げる他のどんな例よりも雄弁にこのことを物語っている。あるいは、こう言ったほうがよければ、われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である。

 ここでいう「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」とは、フロイトいう「遮蔽想起」から取られており、ある幼年時代の偽記憶は、その内容とは別にある隠蔽したい記憶により想起されているという考え方だ。つまり、書物自体はあくまで自身の記憶を想起するための媒介物にすぎないと言ったニュアンスで理解した。

ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づける一連の重要書の全体である。私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。

 本書によれば、ある書物が語れられる際にはジャンルや歴史的経緯と言った集合体との関係性が前提となっており、それを「共有図書館」と呼ばれている。そして個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなる主観的な「内なる図書館」に属する「内なる書物」があり、教養やコミュニケーションにおいてイメージで語られる「ヴァーチャル図書館」に属する「幻想の書物」がある。

 つまり、ある書物が語られる際にはそれが属する複層的なコミュニティがあり、その構成要素である個々の書物は集合体との関わり合いとマッピングの中で意味をもって語られる存在となる。『書評の星座 吉田豪の格闘技本メッタ斬り 2005-2019』(未)だ。読書という行為は書物の外側にある複数「図書館」によって形作られる部分がある。だからと言って書物の存在自体が全く影響しないわけもなく、読書とは書物自体と書物の外側にある皮膜の間にあるものなのかもしれない。

 これは、ジャック・デリダのいう「郵便的」という概念によって説明される。手紙は書かれてから届いて読まれて解釈されるまでに紛失や時間的経過による変容が起こり、当初の意図とは異なる人に異なる届き方をする「誤配」を織り込んだコミュケーションである。つまり、件の増田から僕自身に直接的な害意があることなんてほとんどありえないという確信と寂寥感がある。

 まさに『エクリチュールと差異〈改訳版〉 (叢書・ウニベルシタス 1143)』(聞)におけるエクリチュールによる郵便的コミュニケーションだ。ある文章を目に入れるということは文字列としてのベクトル近似検索をし続けることでもあり、ハルシネーションにこそ価値が宿ることもたまにはあるだろう。

対話コンピュータの心理的安全性と読んでいない本

 本書では『薔薇の名前〈上〉』(未)や『小さな世界―アカデミック・ロマンス』(未)や『吾輩も猫である (新潮文庫)』(聞)などの文芸作品に触れて、読んでいない本を語られる実例が挙げられていく。その中でも、イギリス版『文学部唯野教授 (岩波現代文庫)』(忘)とでもいうべき『小さな世界―アカデミック・ロマンス』にある1980年代の大学教師とイライザと呼ばれる対話コンピュータの一幕が興味深い。

イライザ—— ハズリットのこと話してください。
R・D—— ハズリットなんかには興味はない。スワローのあの愚劣な本も読んでいない。読む必要なんてないのだ。俺はやつといっしょに退屈な成績判定会議に何度も出たことがあるから、それがどんな本かよくわかるんだ。やつがユネスコの教授の正式な候補者だなんて馬鹿げた話だ。

 この当時からも対話コンピュータ相手にだったら、読んでいない同僚の本を不当に評価しているなんてことも言うことができる心理的安全性が描かれているのが面白く、現代の対話型生成AIにも繋がるところがある。イライザはイライザ効果のイライザが元ネタだろう。そして、本当は通信回線越しに人間が対話していたと分かった時の狼狽ぶりも読書という神聖な行為に対する格の高さを表している。そもそも対話型生成AIが相手であってもログは残るし、マン・イン・ザ・ミドルをする余地も沢山あるのだけどね。

本当は精読している本について読んでいないと堂々と騙る方法

 それはさておき、本書において語られる書物の解説にはある仕掛けがあり、後の章でその種明かしがなされる。ただ、それができるということは、 「読んでいない本」について語っているわけもなく、言わば「本当は精読している本について読んでいないと堂々と騙る方法」が実践されている。

 「流し読みだけど本質を理解している」というのも、「試験前だけど勉強してない」「俺、バカだからわかんねーけどよ」「この記事は10分で書きました」といった類の話でもあり、セルフハンディキャッピングと地力をアピールする幼児性が垣間見える。本当は解説本やネットの感想を含めて三回以上読んでいることもあるが、「まだ流し読みしかしていないけど」と言いたくなる気持ちもある。

タイトルから軽薄なハウツー本を想像するけどかなり踏みこんだ読書論なんだよねコレ。本を読むとはどういうことなのか、読書について改めて考えさせられるすばらしい本だよ……って、紹介されてるのをネットで見たよ‼

 ある書物について読んでいなくても堂々と語るためにも、読んでいるからこそ堂々と語るためにも、周辺情報も含めた相応の読書量による図書館のアップデートが必要となる。SNSやWebサイトにあるテキストを読むのは読書ではないというのも了見が狭いだろう。読書感想という書物と書物の外側にある実と虚の皮膜に宿る何かを見つけるために読んで、書いて、読んでもらうことを繰り返している。