太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

飲み会にレジュメを準備していく話とはてなニュータウンに仕事かお金か愛を求めて移住しちゃってからの話

ニュータウンは黄昏れて(新潮文庫)

閉塞しつつあるはてな村の隣接地域の話

 「はてな村が閉塞しつつある」というエントリが立て続けに書かれたことをきっかけに開催されるオンライン同窓会に呼ばれて参加することとなったのだけど、自分としてはダイアリー時代のことをあまり知らないし、ルノワールの会議室でホワイトボードが展開されるらしいリアルはてな村反省会には一度も参加していない。はてなブックマークOFF会や増田OFF会の常連ではあったけれど。

 10年近く同じサービスを使っていれば既に古参なのだろうし、絡んでこなかったわけでもないけど、新しくはてなブログに住み着いた「あいつら」の中にいたモブキャラのひとりという位置取りが正しいのだろう。サードブロガーとかトマト祭りとか互助会とか。そんなわけで、はてな村そのものについての感傷はあまりないが、話題にすらあがらなくなった「はてなニュータウン」についての主観的な思い出を語りたい。

仕事かお金か愛を求めてはてなニュータウンに移住

 自分がブログを書き始めたのはある意味では「詰んでいた」時期だ。当時の仕事の関係で田舎町に長期出張させられて面倒だが難しくはない作業に従事。近くに知り合いがいない。飲む打つ買うが娯楽の中心。合コンはもとより友人との飲み会参加だって頻繁には難しい状況。スキルアップにも人間関係にも重要だった時間を削り取られていく閉塞感に支配されていた。

 飲み会という「貴重な機会」に参加できるのであればレジュメを事前にまとめておきたいし、盛り上がった会話は記録して反芻したい。そんな貧乏性と、独りで無料で好きな時間帯にできる迂遠なガス抜きとして文章を書いていたら、うちの媒体で書かないかという連絡が来たり、僅かながらも広告費が貰えたり、はてな女子からオフ会に来て欲しいという話になったりもして、ふわふわとしていた。

現実を見ろ!俺たちには仮想現実しかないんだぞ!

 リアル世界では田舎町の安アパートとブルシットジョブに縛られながらも、はてなブログニュータウンに仕事かお金か愛を求めてオンライン移住するというのは、当時流行っていたノマド論との食い合わせも良かった。さっさと転職活動を始めるのが「正解」だったのだろうけれど。

 はてなニュータウンには自分に限らず、大なり小なりの閉塞感を感じていたり、仕事を辞めてきたり、鬱になってしまったりといった経歴を開示する人が多かったようにも思う。ここだったら自分らしく生きられるような気分と物理的な閉塞感に支配された中では出会うことのできなかった人々と会話に興奮した。

 「レールの外ってこんな景色!」と物理的なレールに乗りながら仮想的な「外側」で叫ぶ。

再現性のないふわふわに支配される恐怖心を拭うためのSEO

 このブログを積極的に更新していくつかの人気記事が出ていたのは2013年〜2015年頃の話。1000ブクマされたり、ニュースサイトに取り上げられたり、ブロガーイベントに登壇したり、外部媒体に書いたり色々あったのだけど、今となってはなんでそうだったのかよくわからない。強いて言えば「時代」だ。

 なんで自分なんかの文章が広く読まれていたのかを考えるほどに難しい。他に安価で非同期的な娯楽が少なかった。通勤電車の暇潰しにちょうど良い読み物だった。人材不足の中では珍獣としての面白さがあった。ジョブ理論が役に立たない。ただ一つ言えるのは、これには継続性と再現性がないと分かっていたこと。

 「自分はペテン師だといつかバレる」という詐欺師症候群としての居心地の悪さを解消するためにできることは限られていた。はてなブックマーク住人のウケを狙ったり、Googleで検索されやすい語彙や文章を書いたり。いつしか自分や読者のためではなくアルゴリズムをハックするために書かれた文章に支配されていく。

 知ったかぶりの素人がそれで生活しているアフィリエイト界隈や検索エンジンオーソリティ検索エンジン最適化(SEO)について激論を交わして、挙句の果てには Google Bot の認識改変プログラムまで自作して仕込むようになったりもしていた。

再現性のないものに再現性を求めて居場所を失う

 もちろんの僕自身の影響なんて微々たるものだが、再現性がない世界に再現性を求めた足掻きはランキング形式だったり、長文リライトだったりに反映され、今月のPV数は◯万、収益は◯円を競い合うプロスポーツとなった。Google を見据えながら初速にSNSを活用するためにいとも容易く行われていくエゲツない行為。

 そして『ネムルバカ』でいうところの身内を言及して褒め合うダサイクルこそが、はてなブックマークやニュースキュレーションサービスなどのアルゴリズムを効率的にハックし、エコーチェンバーを生み出す近道にさえなっていた。はてな村からの「顔のないあいつら」としてのイメージは恐らくこのあたりがピークだろう。

 そこから先は企業が個人の顔をして入り込んで来たり、クラウドソーシングで云々であったり、それでも様々な「あがり」の人々が生まれたりしたが、自分はドラゴンボールにおけるヤムチャのようにとっくについていけなくなっていた。再現性のないことに再現性を求める同時多発的な試みが一定の成功を収めてしまったが故に自分自身の偶発性が入り込む余地までなくなってしまったのだ。

先輩 最近は周りに情報が多すぎて 自分レベルの人間がどの地位止まりか早い段階で見えちゃうんですよ

 実力勝負なら負けるし、身内で褒め合う輪にも入れない自意識が邪魔をする。フリーザの戦闘能力53万は月間PV競争のトップラインにちょうど良い指標だったが、それを大幅に超える企業や人々と年間や生涯でも届かない大多数がいた。そして普通の仕事に再就職した。

読み手がいなくなったブログに対してできること

 そもそも論を考えるに、現代においてはSNSの短文で読んだり書いたりすることでブログが提供していたジョブは気軽に解消されてしまう。もっと上等な娯楽である電子書籍や動画を安価なサブスクリプションスマートフォンで摂取することができる。ネット記事を読むにしたってクオリティの担保されている有名人や大手媒体の記事のが安心だろう。僕だってそうだ。

 例えば、『大豆田とわ子の三人の元夫』の批評などには時間をかけたし、それなりには面白いと自画自賛したかったのだけど、ろくに読まれてさえもいないのが現実だ。こいつの長文を読んでも得られるものが少ないと人にもアルゴリズムにも悪い方に学習されてしまっていることを含めて自分の実力。誤読による批判を嘆くなんて贅沢すぎる悩みだ。

 そんなわけで、読み手の負担を下げるための方法として俳句とかテキストマイニングとかファスト映画とかを考えたりしつつ、現代においてはSNSでキャッチーな文章を140字でかける方が重要なんだろうなと思ったりもするのだけど、再現性を狙ってもダメだと学んでいるので半ば不貞腐れながら自分の書きたいことを書きたいように書くしかないかぁって適当にやっているのが現在。という偽記憶。

結局は飲み会のレジュメを書いている

 最近はこの文章も含めて、オンライン飲み会や読書会のたたき台としての文章なら読んでもらえたり、自分の音声での主張に反映することで結果的に感想をもらえることが増えたので「飲み会のレジュメ」を改めて書いている。

 それこそがダサイクルの新しい試みなのかもしれないけれど、「貴重な機会」には準備をしていくのが礼儀だろう。そもそも自分が欲しかったのは話し相手が時空を超えて集まる「スナックはてな」だったと考えると、こうやって集まれるのに閉塞しつつあるのかと疑問に思ったりもする。