太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

『大豆田とわ子と三人の元夫』感想〜期間限定の少女漫画と五次元空間に投影される永遠の後の日

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『大豆田とわ子と三人の元夫』完走の感想

 テレビを処分してから、テレビドラマから意識的に距離をおいていたのだけど、『花束みたいな恋をした』や『カルテット』など坂元裕二脚本についての盛り上がりを経て、『大豆田とわ子と三人の元夫』を全話観ることになった。TVer が身近になった影響も大きい。

 結論から言えば、この作品はテレビドラマだからこその新しい面白さを提供していて、それ自体もひとつの社会批評にもなっているように感じた。つらつらと感じたことや考察を書いていきたい。登場人物や会話のそれぞれに反応すると膨大になりすぎてしまうのでほどほどに。

壊れた網戸を誰が直すのか?

 この作品に第一話から描かれているのは、「壊れた網戸を誰が直すのか?」ということ。「ちょっと面倒でややこしい力仕事」の象徴として外れた網戸を直すことが挙げれ、それを直してもらう相手が欲しいと思うところから物語は始まり、キーとなるシーンでも網戸が壊れる。

 大豆田とわ子が壊れた網戸を自分で直せるようになるまでの物語でありながら、それだけでは円満とは言い難い家族関係から生じた「転んでもひとりで起きる子にしてしまった」と悲しいことのように語られてしまう側面もある。

 しかし、「起こしてもらってきた」と元夫達の名前を挙げて、「お父さんだってそう」と返す。そう話す時に網戸を直しているのは父親だ。自転車を教えられなかったと謝る父親が網戸の治し方を見せている。面倒な力仕事をやってもらう関係性は何も恋愛関係にある男性に限らないし、かといって独りだけで生きてきた訳ではない。父親も母親も元夫達もかごめも娘も記憶と経験として同居している。

改姓という排他ロックと名前だけが残る結婚

 女性にとって結婚とは名字が変わって名前だけが残るものだ。田中とわ子、佐藤とわ子、中村とわ子。「大豆田」という特殊な名字からそれぞれの平凡な名字になり、また大豆田に戻る運動を繰り返す。

 ここで重要なのは、田中佐藤とわ子や、佐藤中村とわ子といった期間の重なりがなく、それぞれに排他的(エクスクルーシブ)な時系列となっていること。三人の元夫の性格からしても、別の相手と結婚している時にまで必要以上のコンタクトを取ろうはしていないだろう。改姓というロックが解放されているからこそ、元夫三銃士がまた集まれる。改姓は同居を許さない装置でもあるのだ。

 結婚しても変わらないのは下の名前。名字がどれだけ変わろうが残る「とわ子」こそが大豆田とわ子本人としての一貫性を示している。中村森慎にスポットライトが当たる第二話エンディングテーマの歌詞に「とわ子のとわは永遠のとわ?」とあり、とわ子という名前の永続性とあっさりと捨てられた思い出のソファの一時性の対比となっている。それでいて疑問系になっている通り、時計の針は着実に進んでいる。

愛があるから壊れるものを守るためのデッドロック

 「また付き合おう」や「やり直そう」ではなく「結婚しよう」「夫婦になろうよ」と言うのは、次の排他ロックでとわ子を再び独占するためだが、それが成功してしまえば心地よくも感じ始めた新しい共有的(インクルーシブ)な同居コミュニティの形を消しさるものともなる。だからこそ迂遠かつ成功しない方法が続けられる安心感がセットとなる。

気の合うカップルが愛でもっと盛り上がる。でも、それが冷めたとき、合っていたはずのものすら合わなくなってしまうという瞬間がこの映画にはあった。そんなシーンを見ると、ふたりが友達ならずっと気が合っていただろうにと思えて悲しくなった。

 西森路代の "『花束みたいな恋をした』は現代の「東京(周辺)ラブストーリー」である" という論評にあったこの指摘は、大豆田とわ子にも引き継がれている。誰かを選ぶことは誰かを選ばないことであり、独占を許すことである。それぞれに「合っている部分」があって、娘や元夫同士にだってあったのに誰かがロックに成功した途端に共有的な同居が破綻する。愛があるからこそ問題なのだ。

 複数の存在が互いに排他ロックを試みあって結果として処理が進まなくなる挙動をコンピュータ用語で「デッドロック」と言うのだけど、とわ子は敢えてデッドロックを狙っているかのように複数人での来訪と抜け駆けの拒否を同居させる。本当に嫌なら部屋に入れなければよいのに、部屋には入れて次の誰かしらがチャイムを鳴らすのを確信めきながら待つ。

 それはロックされて独占されることを前提とした現代日本の結婚制度への疑問かもしれないし、「愛によって阻害されうるもの」への忌避なのではないか。かごめが頑なに恋愛関係を拒否していたのも「そんなこと」よりも大切なものを壊しかねないことに対する敏感さなのだろう。例えば夫婦別姓が許されるとしたら壊されない済むものがあったのかもしれない。

3回の離婚を経て少女漫画に戻るか少女漫画を描き続けるか

 モノローグではなく、伊藤沙莉のナレーションによって心情が吐露されるのは『ちびまる子ちゃん』を想起させるし、タイプの違う3人から言い寄られる少女漫画は枚挙に暇がない。誰かとキスをしたら終わりの少女漫画特有のデッドロック空間に3回の離婚を経てまた戻っている。

 そんな世界観に戻れるのは、コケティッシュなコメディエンヌである松たか子だからというキャスティングも大きい。3回結婚して離婚しているはずなのに性的な匂いがしないのだ。現実的に考えるほどに、家に入れて二人で酒を飲めばそういうことだって起きえただろうに、そんな気配を感じさせない安心感がある。

 その一方でかごめは自身は恋愛関係に至る道を拒否しながらも少女漫画を描いているという点において、アロマンティックとは言い難い。むしろ、誰かにキスをする直前の状態までを永続化したいからこそアセクシャルになっているのではないか。そう考えるほどに、とわ子とかごめはオルターエゴとして共有された理想状態での静止点を異なる手段で目指しているようにも思える。

五次元空間としての元夫達と家族との同居

小鳥遊「あの、過去とか未来とか現在とか、そういうのって、どっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。時間って別に過ぎてゆくものじゃなくて、場所っていうか、その……別のところにあるもんだと思うんです。人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40、そのときそのときを人は懸命に生きてて。それは別に過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。だから、あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし。5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手をつないでいて。今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる」

 四人目の夫に一番近かった男こと小鳥遊の台詞だ。これは『『大豆田とわ子』は『最高の離婚』の“その先”を描いていた(福田 フクスケ) | FRaU』に解説される通りに「ループ量子重力理論」をアレンジしたものだろう。これまでも説明してきた通り、現代日本において三人の夫が同時間軸同地点に同居する状況は制度的にも倫理的にも発生しえない。シーズン2、シーズン3と独占期間が異なるからこそ元夫達はインクルーシブな同居を許され、元夫同士の関係性も生まれる。

人為的にしか作れないワームホールを準備してくれたり、ブラックホール特異点の五次元空間の中に、三次元の部屋を用意するのは「神」でも、「彼ら」でもない未来の人類である。現在の自分が行動を起こさなければ「未来の人類」も存在しないわけで、「彼ら」に責任をアウトソーシングしなかった意志力は過去に遡って回収される。

 『インターステラー』においては、三次元空間において二次元の紙を折曲げられるように三次元空間を折り曲げてワープ(=地点の同居)を可能とする四次元空間。時間軸という第四の次元を折り曲げて異なる時間軸を同居させる五次元空間が描かれる。五次元空間内から叩かれた過去の本棚は「現在」から遡って重大な方程式を解決しえる。田中八作の店がノックされて誰もいないシーンが何度かあるが、どうしたって異なる時間軸からの干渉を想起する。

 また「こちらブラジルです」「アルゼンチンです」「チリです」「日本だよ」というやりとりがあるが、これも本来は異なる時間軸や地点にいるべきだったはずの元夫達が四次元の時間軸と、三次元の空間を折り曲げて同居していることの暗示だ。それは物理的に五次元空間にいるのではなく、かごめであれ、元夫達であれ、父親であれ、死んだ母親であれ、ちょっとした痕跡から想起される想像世界の中では時空間を折り曲げて現時点と現地点に皆が再会(=同居)しえるということだ。紅茶に浸したマドレーヌの匂いはそこかしこにある。

オルタナティブファクトが遡って作成されうる坂元裕二脚本

 ところで、その役者の現在の演技に合った会話劇を重要視する坂本裕二は放映と同時進行で脚本を書いていくという。『カルテット』におけるある大仕掛けについてもシリーズの放映開始後どころから、かなりギリギリになってから決まったことだと対談で語られている。

一度、第八話の初稿をもらっていたんです。冒頭から五頁くらいずっとワカサギ釣りしているんですけど(笑)、ちゃんとまとまったシーンにはなっていたんです。そしたら、夜に坂元さんから「ちょっとこういうことを思いつきました」ってプロットが送られてきたんです。読んだ瞬間、「これは……! そうか、こういうことですよね。これでやりましょう!」って。共犯者になれる喜びを共有したくて、すぐ中目黒の仕事場に行って、焼き鳥食いながら乾杯したんです。

 これに対して坂元裕二は「風呂に入ったら思いついたんです」と飄々と言うのだけど、放映が開始してから大分経って風呂に入るまでは存在しなかった「物語上の事実」なのだから過去の放送には物理的に伏線が存在しえないウルトラCである。なのに、その仕掛けを知ってから観直すとちゃんと周到な伏線が遡って作られていたかのようにも感じてしまう五次元空間的な飛躍がある。

 もちろん、この逸話自体を疑うこともできるし、同じようなことが『大豆田とわ子と三人の元夫』にもなされていたのかは分からない。それでも、別れの言葉であれ、仕事上の問題であれ、敢えて決定的なことを描かない余白にこそ時空間を折り曲げてオルタナティブファクトを遡って生成しえる仕掛けがある。田中八作とのあり得たかもしれない熟年夫婦生活やコロッケを手掴みで食べるマーさんと死んだ母親の関係のように。

社会投影論としての共時性を持つ連続ドラマ

 この余白は物語への新たな楽しみ方をも発生させている。これまでの論説においては「優れた物語は社会を反映している」といった作者の優越的な思想を前提とした社会反映論が語られることが多かったのだけど、むしろ「優れた物語は遡って社会に投影される」といった作者の思想を前提としない後の観客による「社会投影論」との共犯関係が求められる側面がある。1975年に公開された『ジョーズ』に現代のコロナ行政問題を勝手に投影したり。

 そもそも反出生主義自体が消極的なテロル(サイレント・テロ)でありながら、それを意図せずとも後押しするような恐怖(テロル)が蔓延しはじめたことこそが「令和元年のテロリズム」なのだろう。暴力行為が社会問題への提起として行われたとは一般的には考えづらいが、その動機が明白になっていないからこそ「もし、そのような主義を持ったテロルだったら?」といった仮定を前提にしたオルタナティブな論考も同居しえる。

 これは端的にいって事実ではないといった批判的も見方もあるけれど、「仮にそうだとしたら」と考えることによってもハマるピースは、作者の当初の意図をも超えて社会に蔓延する問題意識を投影して語るための触媒になる。実際、このドラマは放映が終わってから Twitter などに流れてくる解釈合戦や自分語りや感想戦を含めてのエンターティメントとなっており、物理的な正解が存在しえないからこその飛躍と複数のオルタナティブファクトが同居し得る構造にある。

 先に述べた通りに坂元裕二作品は現時点を遡ってオルタナティブファクトを作りえる五次元空間的な飛躍を許容する余白を半ば意図的に残してあり、異なる視点の会話によって至る高揚感のような感覚そのものが物語が描く快感だ。オルタナティブファクトは政治やニュースをねじ曲げる危険な行為だったのに、余白のある物語を題材にした対話には豊かな味わいと関係性だけが残る。

期間限定の少女漫画と五次元空間に投影される永遠の後の日

そして名前呼び続けて
はしゃぎあったあの日
I love you あれは多分
永遠の前の日

明日、春が来たら

明日、春が来たら

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 「とわ子のとわは永遠のとわ?」と聴くと坂元裕二作詞、松たか子歌唱の『明日、春が来たら』を思い起こす。「永遠の前の日」は結婚制度と改姓というロック機構によって「永遠」に変わるはずだったし、結婚する前から離婚することなんて考えないものだけど、永遠を試みた結果として「永遠の後の日」というロックの解放が3回も続いた。

 しかし、だからこそ新しいコミュニティの形として立ち上がりつつあった少女漫画と五次元空間による「同居しえないものが同居していた日々」こそが『大豆田とわ子と三人の元夫』という作品にに投影された断面なのだろう。初回にも最終回にも出てくるボーリングは「男が10人いたら9人が好きになる」「それは言い過ぎ」いうやりとりにもある「10人中3人は好きになる魅力」を象徴していたが、最後の最後でふざけてぶつかり合って倒れる元夫達は異なる時間軸と地点の同居によって発生した重力特異点内の衝突でもある。

 「まぁこういう感じってずっと続くわけじゃないでしょうし」「そうだよね。そのうちね。そうだろうね」と、この永遠への試みもいつか収束と終息を迎えるかもしれないけれど、何らかの巡りあわせによって同時間軸同地点で再会(=同居)することができる。第四の壁を超えて観客に話しかけることのできる大豆田とわ子。

心の中に残る後悔に大切に何度でも呼びかける。 ここから始まる新しい朝に向けて夢はもう醒めた。

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  • ヒップホップ/ラップ
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 永遠を試みた後の日に再会しえる諸々は結局のところで「後悔」として苦く心の中に残るものなのかもしれないけれど、大切に何度でも呼びかけたい存在だ。そして、異なる永遠が五次元空間的に同居しえると気づいたからこそ新しい朝に向けて今は独りで夢から醒める。ちなみにエンディングテーマのタイトルは『Presence(=その場に存在が感じられる)』である。