はてな村キャッキャウフフに登壇
「はてな村が閉塞しつつある」というエントリが立て続けに書かれたことをきっかけに開催されるオンライン同窓会に呼ばれて参加することとなったのだけど、自分としてはダイアリー時代のことをあまり知らないし、ルノワールの会議室でホワイトボードが展開されるらしいリアルはてな村反省会には一度も参加していない。
7/2(金) 20:00からTwtter スペースで開催された『閉塞しつつあるはてな村を肴にしてキャッキャウフフする会』の本編と翌日の後夜祭に登壇して色々と思うところがあったので記録しておきたい。 配信オフレポ?
「はてな村民」の定義は「はてな村に言及する人」
最初に確認したかったのは「はてな村」ひいては「はてな村民」の定義。閉塞しつつあると言われても「はてな村」が示している先が異なると議論にならない。一般論としては話題と利用システムのマトリクスで表現されると思いつつも皆が異なる先を見ているような気もしたのだ。こちらについては id:p_shirokuma 先生から 「はてな村に言及する人」という再帰的な定義が採択された。
試みに、池田仮名さんのはてなブログを「はてな村」で検索してみると、びっくりするほど記事が引っ掛かる。はてなブログユーザーのなかで、ここまではてな村に言及しているユーザーは他にいないのではないだろうか。たぶん、私より言及している。村貢献度が高すぎる。
(中略)
池田仮名さんは村民だと思う。本拠地自体は新市街にあるが、醸しだされる雰囲気は「はてな村クラシコ」とでもいうか、旧市街の匂いがぷんぷんする。新しくして古き、古きにして新しきはてな村民、ようこそはてな村へ!ただ、池田仮名さんにひとつだけ忠告申し上げておくと、はてな村には、仕事もお金も愛も落ちてませんので。悪しからず。
過去(8年前!)に言及された時に、このようなやりとりがあったので僕自身としても納得しつつも、敢えて後半にもある「はてなでブログを更新しながら、それを踏み台にした仕事かお金か愛を求めていない人」も定義に加えることで村民の現状を分析したいと思っていたと。全日本女子プロレスの三禁(酒・タバコ・男)のようなものだ。
それでね、持続可能性って話になると、必ず考えないといけないのは、「それってお金が儲かるか」「それでご飯食べられるのか?」ということなんだよ。これが一番はてな村が向き合ってこなかったことだとも思う。
この反応が出てくるのも予想できたけど、それは「はてなコミュニティの閉塞感」の話であって「はてな村の閉塞感」の話ではない。だって、「はてな村には、仕事もお金も愛も落ちてませんので」と採掘資源としてのそれらが存在しない警告が最初からされている。今回の登壇メンバーとしてはあまりに暗黙的な前提に含まれているが故に言及されなかったが、その部分からの前提共有が現在のマジョリティには必要になるという点においても、「はてな村」は既に過疎の村であり、アーミッシュのような奇人の集まりということなのだろう。
コミュニティの閉塞感は報酬系と個人の齟齬問題
お金の問題ではないとはいえ、閉塞感は報酬系の問題であることには変わりない。個人個人で目的とする報酬系は異なるから一般化が難しいが、例えば下記のようなものが挙げられる。
- 書くことによる自省的な気づき
- 感想や批評などの定性的なフィードバック
- 他サイト等から参照されることによる寄与感
- 広く読まれることによる定量的なスコアリング
- オフ会などにつながる人間関係
これらの報酬系にはそれぞれ脆弱性があり「書くことによる自省的な気づき」を求めている人は「同じような思考のくり返しに飽きる」が隘路になるだろうし、「感想や批評などの定性的なフィードバック」は「誹謗中傷などのノイズが増えすぎる or 全く反応がない」といったことが隘路になる。やめてしまう人々の大半はそれらのモデルケースで説明できるだろう。
もちろん、唯一の指標を満たしたいだけではなく、それぞれに重み付け係数を持った混合スコアリングモデルになるし、その重みづけも日々移ろうものだ。しかし、現時点の報酬系と実績の齟齬が続くことによってブログ継続のモチベーションを感じなくなっていく場合に、自分自身にとって適切な報酬系を用意してくれないコミュニティそのものへの閉塞を感じるのだろう。つまり「それはあなたの閉塞でしょう」という太宰メソッドが発動している。
はてな村の三禁を破ったことによる閉塞感
その上で、以下の報酬系を突き詰めると、はてな村民の採掘資源三禁忌につながる本来的には抱いてはいけない欲望につながっていく。
- 他サイト等から参照されることによる寄与感 -> 書籍や外部媒体での執筆などの「仕事」
- 広く読まれることによる定量的なスコアリング -> 広告収入や執筆料などの「お金」
- オフ会などにつながる人間関係 -> 恋愛や親友などの「愛」
これらは「はてな村に落ちていないもの」として定義されていたのだけど、実際的には「殆んど落ちていなかったし、見つけても殆んど拾わなかったもの」なのだけど、現時点では割とコモディティになっている。新しいユーザーになるほど当たり前のように外部媒体に書きたいとアピールして、広告収入の報告をして、色恋沙汰の事件が起きている。それらは「落ちてない」のではなく存在するようになったが村の禁忌だけが残っており、それ自身が村民のアイデンティとして機能していた。
外部媒体で書けば利害関係が発生してブログで好き勝手できなくなるし、ブログ自体の優先順位は低くなる。Googleアドセンス広告を貼れば下ネタやギャンブルの話がかけなくなるし、記事内容が換金性に引っ張られる。ネット経由の恋愛関係がこじれて公開されたらダメージが大きすぎるし、モテを意識すれば出せる話題だって限られることになるだろう。当時は殆んど資源採掘ができなかった話と、あってもリスクが大きすぎたこととの相互補完的な話ではあるが、それらが禁忌であることに村民の一定の理解と内面化があったのは「そんなもの」と引き換えに自由に書ける趣味を手放したくなかったからだ。
はてな村民に伝わる採掘資源三禁忌と97%の決別
ここまでは用意していたけれど、全然喋れなかった。人数と権威バランス的にモブキャラが持論を長々と述べる会でもなかったし、今回の会における僕自身の役目はあくまで、id:Ta-nishi 氏と id:p_shirokuma 先生の個人的な対話の見届け人になることだと判断した。
id:p_shirokuma 先生の感じる閉塞感については、はてな村にいながらにして「仕事」の採掘という禁忌を侵した引き換えによるグリーフシードの濁りだと個人的には感じていた。インプットやアウトプットは著作優先になるし、どうしたってプロモーション的な文章がブログ空間に生まれていくし、同じアカウントでできることは制限される。「今は人間に戻って」の発言はそのあたりの部分にあろう。
ただし、「そんな簡単じゃないよ」って答えが大前提となる。「書籍」という形にならなければ届かない範囲は沢山あるし、念入りな編集・校正・校閲によってブラッシュアップされた文章の浸透力は強い。ご本人は「結晶化」とおっしゃっていたが、それは結果として独りで延々とブログを書いていても至れない到達点と影響力であるし、十二分に「自分らしさ」のエッセンスを正しく伝えることができる。それは何者にもなれなかった元ワナビーの自分にはできなかったことだ。あ、今度『何者かになりたい』の読書会をするので是非。
昨日、はてな村を偲ぶ会をスペースでやった経験を踏まえて、私、p_shirokumaは今までよりも書籍づくりとそれを支援するためのブログ活動重視に切り替えることとしました。切り替えの比率は10-20%ぐらいでしょうか。疎外もあるだろう。でも、もっと努めてみたいという気持ちになりました。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2021年7月3日
今、自分には商業出版やそれに類する様々な取り組みのチャンスが与えられている。それは獲得したものでもあり、与えていただいたものでもある。そういうチャンスに対して今以上に前向きになりたい・なるべきだ的な思いが昨夜は強まった。自分のやりたいこととすべきことが、ここでは溶け合っている。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2021年7月3日
たにしさんは、観客を無視したやりたいスペースをやるという。自分は、そういうスペースをきっとやりたくない。ブログもたぶんそう。ある程度まで自分の好きなことを書くけど、複合的な目的と目標と切り離しては書かない(し今までもそうしてきた)。そうやって、自分に見えている獣道を進みたい。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2021年7月3日
結論としては、はてな村にまつわる禁忌を守ることによって成立していた部分こそが「そんなもの」側に回ったという宣言がなされたという認識。ある意味では村からの出港式にも思えて、愛しさと切なさと心強さの謎感情に支配されていた。
はてな村に殆んどなかった「仕事」を採掘する禁忌との引き換えにして封じられたドロドロとしたやりとりは、それよりも必要だと判断された採掘物と引き換えに今後は「殆んどない」状態になっていくのだとも思われるが、だからこそ少しづつは書籍であれブログにあれ個人的な手紙の断片が含有されていくのだろう。希少財としてのそれらを大切にしたい。人間の目的と目標はいつだって複合的だし、日々移ろいえる柔軟性もある。
後付けアウトサイダーアートと巻き込まれ事故
ところで、この配信イベントの一部からの評判はすこぶる悪いようだ。Twitter スペースがクソ、進行の不在、前提のない散発的な発言、Twitter スペースがクソ、強引な我田引水の話題泥棒、人を上げておいての無視、Twitter スペースがクソなどなど。
司会がグデグデでわけわからんという感想を見て大成功だったなとほくそ笑んでいる。私は今回「イベント」をやりたかったのではなく「オンラインオフ会」をやりたかったので。視聴者のことなど知らぬ存ぜぬ。
— たにし (@Tanishi_tw) 2021年7月2日
#はてな村キャッキャウフフ
昨日のTwitterスペースに不満な人は、自分の手で自分が最高に楽しめるTwitterスペースを作ればよろしい。駄サイクルを作ればよろしい。元来ネットはそういう場だったハズだ。終わらないアマチュアリズムの祭典だったハズだ。
— たにし (@Tanishi_tw) 2021年7月3日
私が言いたいのは、そういうことです。#はてな村キャッキャウフフ
特に23:00ぐらいからは、主要メンバーが帰りつつも終電逃しメンバーがグダり始めた感じになっていてダメな方の既視感のが強かった。奇しくも別の有料イベントでもクダ巻き配信がされており話題になっていたのだけど、こういうのを前提としたコミュニティは心と身体を壊して自壊することになるって『サブカル・スーパースター鬱伝』でも言ってた。
続)若い女の配信主が数字欲しさに心を病んでどんどん脱ぎ始める、みたいな現象のエスカレートについて率先して苦言を呈してたような中高年有識者たちが、マネタイズのためにアルコール介したストリップを始めるのは、本当によくない。放置すると最悪は通院治療が必要になったりもすると思う。マジで。
— 岡田育 / 『我は、おばさん』発売中 (@okadaic) 2021年7月3日
id:Ta-nishi 氏はとにかく何者にも縛られないことを至上命題にしているし、「昔のはてな村」のアマチュアイズムを狙った動きと本当に失敗した部分の相互補完的な過程と結末だろう。事前に何の説明がないのがまず良くないし、狙っていることは途中で大体理解できた上でもゲスト陣の名前を使って集まってくれたオーディエンスに向けてやることじゃないよなぁってのが感想。
そもそも「駄サイクル」を肯定するのであれば、よりセンシティブに自分が呼べる少ない受け手のことを考えておもねったり、人間関係そのものをメンテナンスする必要もある。ゲマインシャフト内なら何をやっても許してもらえるだろうってのは駄サイクルですらないし、友達ブクマみたいな内容ではなく人間関係グラフ依存の評価系にしたいなら余計に破綻したことを言っている気がする。個人的には商業にまつわる編集作業よりもそっちのがよほど自分を曲げていて嫌だけどなぁ。
それにプロレスだったと事後承諾させるなら「自分で怪我するレスラーは2流だけど、相手を怪我させるレスラーは3流」ってテーゼにおいて自損事故に収まらない部分を合意なしに作ったのが良くはない。すごく器が小さいことを言うと、今回は id:Ta-nishi 氏がホストだし、やりたいようにやらせるのが趣旨だと分かったので、本当にどうしようもない時だけ助け舟を出していたのが結果として「池田はなんとかファシリテーションしようとしていたが下手」みたいな評価になっていたのも巻き込まれ事故。もはや威信値ゲームも何もないだろうけど。
ああいう関わり方は一番ダサいと自己嫌悪になったので、後夜祭は乗っ取って自分のツイキャスアカウントで当日ちゃんと話せなかったであろう id:amamako さんとの対話を試みたりもした。はてな村というよりもネット論壇自体の話はある程度できたのかなと思いつつ、それが「はてな村」の話だったのかはまた別物。ブログが事前スパーリング、ツイキャスをプロレス試合とすれば上手くいことも多いのかなと個人的には感じた。
その一方で別に入場料を取ったイベントでもないし、いつでも抜けられる配信イベントで、どんだけお客様感覚なんだよってのもある。飛び入りで自分の話をしたければ自分で開催すべき。でも「失敗も含めてあれはアートだった」とか後付けで言うのもものすごく格好悪い。Twitter スペースは現時点では本当にクソ。はてなスペースのがまだマシなサービス。『ネムルバカ』は『ネムルバカ』ではてな村にまつわる云々やシロクマ先生の話で単純化するのは全然違うので、別途読書会をしたい。総じて言えば楽しかったのでヨシッ! 以上。