太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

濱野ちひろ『聖なるズー』感想〜人間以外にも倫理的で対等なパーソナリティを求めるが故の動物性愛という異常

聖なるズー (集英社文庫)

『聖なるズー』感想

過去に十年間にわたってパートナーから身体的、肉体的DVを受け続けた経験を持つ著者は、愛と性を捉えなおしたいという強い動機から、大学院で動物性愛を研究対象に選び、さらにズーたちと寝食をともにしながら、人間にとって愛とは何か、暴力とは何か考察を重ね、人間の深淵に迫る。性にタブーはあるのか? 第17回開高健ノンフィクション賞受賞作。

 本書は、動物性愛の修士論文執筆のためのドイツ調査旅行において様々な形の動物性愛者(ズーフィリア または ズー)に行った取材に基づくノンフィクション。自身を支配するための行われていた過去の性暴力経験と動物を倫理的で対等に扱うからこそ発生し得る動物性愛の対比が描かれる。ちなみに第18回の開高健ノンフィクション賞受賞作もまた個人的に大きな衝撃を受けた『デス・ゾーン』である。

 DSM-5においては動物性愛は「他の特定されるパラフィリア障害」として精神疾患の一種となっており、詳細な分類対象となっていない。しかしながら、動物性愛と獣姦は似ているようで異なる。例えば性欲発散の代替道具に羊が使われていた歴史であったり、異物混入の一種として水生生物を利用するなどといった異常性癖は獣姦であるが動物性愛とは言えない。本書においてはあくまで特定のパーソナリティを持った個体として人間以外の動物を性的に好きになってしまった人々が描かれる。

ペットの性欲を奪っていたことの倫理性

 特定のパーソナリティを持った個体として人間以外の動物を好きになること自体は珍しいことではない。僕自身も長らく猫と暮らしていたが、甘えたい時と機嫌が悪い時の差などははっきり分かるし、パーソナリティが存在するコミュニケーションのできる存在であった。どの猫も同じではなくこの猫だから可愛いのだし、家族として愛していた。ただそこに性的な目線がありえなかっただけだ。

 これにはペットの家族観が影響していると本書は指摘する。一般的にペットを飼うと家族の中では一番下の子供として扱われるが、犬であれば人間に比べて4〜7倍の速さで成長するので肉体的には早々に成熟してくる。それでも去勢や避妊手術がされており、人間で言えば5歳児以上の知能にはならないから、永遠の子供扱いして性欲を抱くことすら思い至らないアンバランスさがある。動物愛護の観点からすると、どちらが真に倫理的なのかは難しい。

「聖なる」ズーだからこそ語られる構造

 「ズー」の彼ないし彼女らが暴力的な強制性交をしていないと主張する根拠として、相手からの誘いがあり、それに応じた合意関係があったことを挙げる。本書内においてズーとして語る多数派は犬のパートナーを持つ男性のパッシブパート(人間側が受け)である。確かに犬から挿入された人間が許しているのであれば同意があったようにも思えるが、人間から挿入したのであれば、どうしたって暴力性を伴うように感じてしまう非対称性がある。

 動物にも性欲があるし、コミュニケーションが取れないわけでもない現実において、あくまで対等な関係を結ぶために動物からの性的接触を受け入れることについて、異常とは何かを問いかけてくる。他方、人間こそが性欲発散の代替道具になっているではないかとも思えてくるが、第三者に語ることができるのは人間だけだ。

 ズーとして語る多数派が男性のパッシブパートであることにはいくつかの前提があって、つまり好奇の目に晒されやすい女性よりも男性の方が語りやすく、アクティブパートよりはパッシブパートの方が相対的に倫理的なロジックを語りやすい。つまり実態的な比率ではなく「語られやすさ」の発露にしかすぎない可能性が出てくる。彼らは動物性愛の中でも相対的に倫理的に見えてしまうからこそ「聖なるズー」なのだ。

若年層にとってのポップなズーフィリア

 またLGBTQ運動の中でズーフィリアについてもある種のポップさが帯び始めた倒錯も描かれる。日本においては江戸時代から北斎の『蛸と海女』があるし、ケモ耳やポケモンはメジャーな存在だ。もちろん実存的な動物との話には大きな飛躍があるが、性的妄想としての戯画化された動物性愛自体は珍しいことではない。

 ドイツの一部の若者においてズーフィリアは「日本のエッチな漫画で読んだことがあるクールな性的嗜好」となる側面すらあるらしい。ドイツ人をも狂わすクールジャパン。またゲイ・カミングアウトを受け入れてもらえた延長線上にある試し行為として、よりアブ・ノーマルな性的嗜好としてのズーフィリアをカミングアウトをしたがる可能性も示唆される。切実な問題がよりクィアであることの競争に使われるのは辛い。

真に対等なコミュニケーションと性愛

 旅の途中で、エクスプロア・ベルリンというセクシュアリティに関するフェスティバルに参加する。街の区画全体がハプニング・バーのような様相になり、朝から晩まで様々な形のワークショップを行う祭典。日本では考えられないことだ。

「気をつけて行ってきて。セクシュアリティをテーマとしている君には興味深いんだろうというのは分かるけど、それが普通のドイツだとはゆめゆめ思わないでね。断言するけれど、それはごく一部の、変なドイツだ」

 やはり常識的な(?)ズーの人々にそう言われて、送り出されたフェスティバル内で実践する「言葉を使わずにどのように触れて欲しいか、あるいは触れて欲しくないかを表現する方法を学ぶ」ワークショップ。それは言葉を出せたに逃げられなかった性暴力の記憶を思い起こさせる体験であり、またズーの人々がいう動物の方から言葉を使わずに誘ってくることとの対比でもある。

 僕自身は他人の機微を深読みしたり、言わなくても伝わることを期待してネガティブになることに疲れたので、人間同士なら言葉を尽くそうと思ってしまう方ではあるが、それはそれで肉体に紐づいた感情と遊離し始めるリスクもある。

 その上で、言葉による合意なんて言葉の外側で決定される信用のできないものであるし、だからといって言葉のない合意こそが真の合意だなんて言い切ることはできない。人は時々、嘘をつく。犬もそうかもしれない。はな倫理的で対等なパーソナリティを求めるが故のコミュニケーションは相手が誰であれ不可能性をはらんでいるのだ。