ゴッドタンでの吉住の指摘
吉住「働き方改革によってADさんがあんまり残業できなくなってるんですよ。ということは、本来ならテレビマンがやるべき下調べみたいなことを賃金の安い若手芸人がさせられてるんですよ」#ゴッドタンhttps://t.co/K8ThF2QT7d pic.twitter.com/nO6yKMQfCu
— K助 (@ksuke_99) 2023年5月14日
ここのところで、若手芸人をとにかく長時間拘束して何かを調べさせたり、挑戦させるような企画が多いと感じていたが、「リサーチ」や「ドキュメンタリー」という大義名分があると暴力性や罪悪感が漂白されるだけでなくスタッフの働き方改革まで実現できるのだと唸った。
番組内でも指摘されていた通り、拘束されている時間はアルバイトもできないし、芸を磨く時間も作れなくなるが売れたいから薄給でも必死にやる。テレビに映って何かの成果につながるかと言えば、辛そうな姿を面白くないまま放送されるだけだったりもして、ただ寿命を縮めるだけの蕩尽行為に対するサディスティックな笑いの需要と供給がある。
緩慢な毒殺の倫理
この国ではかなり昔から、毒殺が敵を抹殺する申し分ない正当手段だと考えられていたようで、一六~一七世紀のイタリア人は平気で敵対者を毒殺し、良心の呵責などみじんもなかった。それは今日の英国人が加害者を相手取って訴訟を起こすのと同じ感覚だった。
16~17世紀のイタリアにおいては特に貴族間の政治的な争いの中で毒殺がブームになっていた。ピストルをや短剣には躊躇する人々も直接的な暴力を避けられる緩効性の毒であれば恐れずに使っていたといわれており、不自然な病死が相次いでいる。それを裏付けるのが教会の告解による自白があまりに多かったというのも興味深い。
・糞旦那の歯ブラシでトイレの便器掃除(特にフチ裏)
(中略)
・塩分控えめにしてと言われたので、毎日糞旦那の味噌汁だけ塩を足す
緩慢な毒殺については人間の倫理観を麻痺させる効果があるようで、現代の告解である「旦那デスノート」において塩辛い料理を食べさせたり、歯ブラシに汚物をつけたりして入院させても因果関係を曖昧にしてほくそ笑んでいるような投稿がある。プロバビリティの殺人。
大義名分と緩慢さのオブラート
若手芸人を長時間拘束して寿命を無駄に蕩尽させるのも緩慢な毒殺と大差がないようにも思えるが、直接的に痛がらせたり、大切なものを壊したりするのを嘲笑するような暴力性が漂白されて笑いにできる上に、スタッフの働き方改革までついてくる。それを求めている人々の大半が働き方改革の恩恵に預かっているというのも闇が深い。安全圏からサービス残業を眺めている優越感とシャーデン・フロイデ。
他にも情緒不安定なライターが1を聞いたら10を脚色する超解像処理をしがちなど、言語化の面白さ自体が話題になるメタ構造。そこで演じられるエンタメではなく、仕事自体の話のが面白くなってしまう再帰構造になっていくのもどうかと思うけれども、サラリーマンであれ芸人であれそういう苦労話自体を緩慢な毒殺ショーとして楽しんでいる自分もいる。