太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

今村夏子『こちらあみ子』感想〜環世界に埋めがたいズレがあるのに発揮される積極性の罪と罰

こちらあみ子 (ちくま文庫)

『こちらあみ子』の衝撃

 以前に、『ピクニック』を読んでも何も感じない人間について書いていたのだけど、表題作の衝撃度のが高かった。

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

 小学校低学年のクラスに「厄介な人」がいたという記憶が自分にもある。今となっては何らかの障害があったのかもしれないが、理由を分からないが故の残酷な視線があったのも事実だ。そんな罪悪感を思い起こさせながらも、あみ子の認知とあみ子を被写体にした密着ドキュメンタリーによって、絶望的なコミュニケーション齟齬を描きだす。

 2022年に映画化決定とのこと。これは難しいというか。まさに『放送禁止』のような演出になるような気もしつつ、純粋なあみ子のドタバタコメディみたいに描く事自体が皮肉となる。本書の概要説明のように。

ひとりに密着する三人称のカメラ

『ピクニック』も三人称ではあるが、ひとりの内心しか描かれないという点において極めて私小説的であり、それでいながら手持ちカメラが被写体としての七瀬さんを追って恣意的に描きだされるドキュメンタリーでもある。

 今村夏子は、敢えて一人称を取らないでカメラを固定する手法を好むのだろうと感じているが、その手法は『こちらあみ子』でより効いてくる。一般的なドキュメンタリー映像においては密着カメラと当事者の認知は同一であるという暗黙の前提があるが、それを崩してカメラが決定的な映像を捉えていても、あみ子がそれを認知しているとは限らないズレが執拗に描かれている。

 あみ子の馬鹿、はそれだった。角度を変えて見ると、光の加減で消えたようには見えるけれど完全ではなかった。
「もうちょいで消えそうなんじゃけどねえ」あきらめきれなくて、あみ子は腕に力をこめて傷を何度もこすり続けた。小学一年生のあみ子に読むことができたのは自分の名前の部分だけで、その下、馬鹿という字は読めなかった。

 例えばカメラには「あみ子の馬鹿」という決定的な言葉が映されているが、あみ子は「馬鹿」という字が読めないので意味が分かっていないし、「優しい父親」に意味を聞いてもはぐらかされる。カメラに決定的な事象が映っていくのにあみ子の認知は追いつかず、主観世界と客観世界のあり様に埋めがたいズレがあることが示唆される。

自分がされて嬉しいことを相手にしてあげる戦術の脆弱性

 それは読み始めた時にはサラッと流してしまいがちな冒頭で起こる祖母の家での小学生さきちゃんとのエピソードにも現れる。

 数日前、あの花持って帰りたいと言ってさきちゃんが指を差したのが、畦道に咲く毒花だった。あれはダメだと言ったのだけれど、「黄色くてかわいいあの花がどうしても欲しいのです」と、さきちゃんにしては珍しく駄々をこねた。
(中略)
 翌日、さきちゃんはつまらなさそうな顔をして、しかし儀式のように真面目にコツコツ竹馬に乗ってやってきた。「お母さんに怒られました」と言う。汚い花、捨てなさい、と言われたそうだ。

 黄色い毒花は作品内にも出てくる金鳳花だろう。

 金鳳花は毒花だから捨てられてしまったとあみ子は思っているが、お母さんは「汚い花」を捨てている。そもそも金鳳花は園芸用として高い人気を誇っているわけで、スミレを渡せば「汚い花」とみなされないのかは不定であるが、毒がないからお母さんに喜んでもらえると無垢に信じているズレがあるのだ。ちなみにスミレにも毒がある。

 あみ子は相手の気持ちを考えているし、フィードバックを受けているし、それを行動に反映することができるようになったのに、まだ空回りを続けている残酷さがある。自分がされて嬉しいことを相手にしてあげる戦術の脆弱性だ。

環世界に埋めがたいズレを見つけた相手の気持ち悪さ

環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。 すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。

 全ての生物は特有の知覚世界をもって生きている。マダニにはマダニ特有の知覚があるが、これは人間Aと人間Bの差異にも起こりえる。認知の違い、思考の違い、行動の違い。種ごとに大体は共通的になるはずの環世界は先天的な障害や気質の違いや後天的な教育やコミュニケーションが欠けることで異化される可能性もある。

 「個性を大切に」と言いながらも、主観的な環世界が客観世界と埋めがたいズレがある相手に感じる感情は「気持ち悪い」であり、後天的なコミュニケーションを諦められる事による異化のスパイラルが発生する。許される個性には範囲があり、それを逸脱する者はモンスターとして扱われる。まさに「種が異なる」のだ。

気持ち悪い人に好かれてしまう恐怖心と嫌悪感

 舞台は小学校時代から引っ越すまでの回想となり、お母さんの死産やのり君への淡い恋心が主観的には描かれているが、のり君からすると友達の妹だから仕方なく面倒を見ていた気持ち悪い存在でしかないあみ子から理由なく好かれて気持ち悪いコミュニケーションを取られていくことに感じる恐怖心と嫌悪感が主観と客観で描かれる。

 あみ子が中学生になってからはまともに食べることができず、風呂に入れず、頭の中に奇妙な音がなり続けて睡眠不足に苦しむようになる。奇妙な音が鳴り始めた物理的なきっかけについては後に種明かしされるが、それが頭の中でなり続けるようになってしまったことへの明確な回答はない。

 おそらく心因性の耳鳴りなのであろうが、耳鳴りほど主観に依存した症状もない。過度なストレスの元を想像するほどに、のり君からの冷たい仕打ちに理由がありそうなのもしんどい。それを裏付けるかのように、唯一まともな会話ができた母親の習字教室の元生徒とのやりとりができた日に、お腹が減って、歌いながらお風呂に何度も入ることで奇妙な音は鳴らなくなる。

 「幼少期の淡い恋心」なんて見方もできるが、自分の好きな人から「気持ち悪い人に好かれてしまう恐怖心と嫌悪感」を感じとってしまえば深刻な病状を抱えることにもなりえる。結局は告白して殴られて前歯がなくなってしまうのであるが、のり君のコミュニケーション方法にはそれしか残っていなかったのかもしれない。モンスターは打倒される。

あみ子の認知、カメラの認知、読者の認知

このごろ母は自分自身を指して「お母さん」と言う。初めて顔を合わせた日からずっと「あたし」だったのに。

 上記までに限らず伏線となるような情報を包含する描写が続いていくが、その意味を読者が認知できているのかはまた別。それは個々人の読解力の問題もあれば意図的な叙述トリックの問題もある。

あの夜からちょうど一年。振り返ってみるとルミたちは若かった。単にひとつ年を重ねただけではなくて、この一年間でいろんなことがわかってきた。たとえば七瀬さんのひととなり。

 これは『ピクニック』の中にある「読者への挑戦」とも思える文章であるが、二周目になると意味が分かることが多い構造は『こちらあみ子』にも現れる。逆に言えば一周目の読者はあみ子よりもほんの少しだけ周りが見えていただけで、相対的に狭い環世界の中に囚われていた自分自身の認知の狭さを客観視できる仕掛けがあるのだ。

「こちらあみ子。応答せよ」

 タイトルにもなっている、「こちらあみ子」は誕生日にもらったトランシーバーに話しかける呼びかけ。死産した弟と思い込んでいた妹とスパイごっこをするために取っておいた必要なもの。

「赤ちゃん?」
「わからんじゃろう」
「それって」
「あみ子にはわからん」

 壊れていたのは、あみ子だけではないし、聞いているのに答えなかったのは父親だ。電池の切れたトランシーバーからの応答はないが、あみ子はいつだってコミュニケーションを取りたいし、知りたいし、直したい。自分の気持ち悪い部分を教えて欲しい。

 どこにも繋がらないはずのトランシーバーは一度だけ繋がって、頭の中で鳴り続ける奇妙な音を根治させてくれる奇跡も希望ある。それでも事態はあみ子の認知の外側で戻せない所まで進んで行き、あみ子さえいなくなれば家族を再生できるかもしれないと取り扱われる悲哀がある。あみ子は両親が離婚すると思っていたが、放逐させられるのはモンスターである自分自身であり、それが冒頭の祖母の家に繋がる。

 本作の特徴として、他者から自分を守るために使われてきた A.T フィールドがむしろ自分の行動を邪魔するように描かれることが挙げられる。これはSDATウォークマンで耳を塞いで聞こえないようにする段階から、自分から話しかける恐怖への変化だろう。近くの会話に聞き耳を立てて、自分もそこに参加したいのに、こちらから話しかける恐怖は揺るがないディスコミュニケーションの次段階。

 『シン・エヴァンゲリオン』では話すべきことがあるのに話しかけない罪が描かれていたが、『こちらあみ子』では主観世界と客観世界に埋めがたいズレがあるのに発揮される積極性の罰が描かれる。何も話しかけてくれない人と積極的に話しかけてくる認知の歪んだ人のどちらが「厄介な人」なのかは場合によるが、空気の読めないおけけパワー中島は死ぬしかない。

ほんの少しの進捗に対して感じる希望と絶望

着実にこちらに向かって前進しているはずなのだが、まるでその場で足踏みをしているかのようにのろい。

 あみ子は僅かに教えてもらった認知をほんの少しづつ広げながら前進しているはずなのだからこれは希望の話なのだと読むことも、それでも空回りと足踏みを続けている絶望の話だと読むこともできる。しかしながら、「希望」を強調するほどに、あみ子の主観世界を切断処理したうえで半ば諦観した「いつかの正常化」を定義することにもなる。障害は治癒されるべきか。

 あみ子はサヴァン症候群のように障害を引き換えとした何かを都合よく持っているわけでもない。金鳳花の花言葉は「子どもらしさ、到来する幸福、富、中傷、栄誉、栄光、幸福、無邪気、上機嫌」であるが、あみ子に対しても「子供らしくて幸福で無邪気で上機嫌な存在」と評して、個性への憧憬を表明することもまた主観世界に対する切断処理であり、トランシーバーを壊す行為になってしまう。

 この作品から教訓めいた物事を取り出すことはできないが、困難であることだけはわかる。カメラが捉えた認知を正しく読解し続ければ解決できるようになるのかもしれないと考えている読者自身も、また半ば諦観した「いつかの正常化」を少しだけ俯瞰した認知のフラクタル構造で定義しようとしていることに気づく。