太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ゆるりまい『私のウチには、なんにもない。』〜物を捨てたい依存症と捨てられる物が増える奇妙な共犯関係

わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります (ホビー書籍部)

掃除の前に片付け

 部屋の環境を良くしていこうと思うほどに家の物を減らすのが近道だと気づく。結局のところでホコリが溜まるのは家具と壁の間であったり、押し入れにしまいっぱなしの半不用品や収納棚だ。

写真と文章で自宅を紹介するスタイリッシュなブログが評判で、そのモデルルームのような文字通り“なんにもない生活"は、汚部屋に棲むすべての人たちから羨望のまなざしを受けています。しかし、そうなるまでには、「捨てたい病」を発症した彼女と家族との長い葛藤(戦い! )がありました…。極度の断舎離に至ったことの顛末を自身によるコミック化で再現。かつては汚部屋の住人だった彼女が「なんにもない生活」に至るまでには、涙と努力の紆余曲折があった!?

 それなりの面積がある床であればルンバがなんとかしてくれる訳で、ルンバの為にも物を減らしたい。掃除を楽にする為にこそ片付けだと思うほどに、ミニマリズムについて改めて考えたくもあった。

ミニマリズム自己啓発

 「物を捨てたい病を発症した」や「捨て変態」という自虐がある通り、根本的には強迫神経や依存症を描いたコミックエッセイの側面が強い。これがアルコールやネットゲームの依存症であったら悲しいドキュメンタリーなのだけど、ミニマリズムと結びつくことで「真似をしたい」と思わせる自己啓発になってしまう奇妙な共犯関係が成立する。

 物を捨てられない家族の元で過ごして、自身も汚部屋に暮らしていた中での震災発生。本当に必要な物だけで暮らすようになってから捨てることに快感を覚えてゴミ袋を片手に捨てるものを探し回る日々。ちょっとでも「必要じゃないかも」と思うのと「捨てのK点越え」をして何にもない部屋を作りたくなる。

 それが良いことなのか?にはついては大いに疑問があるけれど、必要な物だけで暮らすことの快適さについては自分としても分かる。

片付け可能認知範囲のバーチャルウォール

 捨てる際に問題になるのは家族との軋轢である。物を捨てられない家族と片付けの苦手な夫と暮らしていると勝手に捨てたくなってしまうが、それはそれで不和の原因となる。家族とのやりとりで気をつけるのは自分が物のを捨てても良い認知範囲を決めてその外側には手を出さないこと。

 ルンバにはバーチャルウォールという機能があって、ここから先には立ち入るなと学習させられるのだけど、ちょっと似ている。その一方で、ずっと家にいるから自分の部屋の管理に過剰なほどに全力を尽くしてしまう側面があるのではないかと思えた。

 きっと会社の掃除みたいな話も増えたら発狂するだろうし、良くも悪くも自分が生活する場所に限った箱庭であるから余剰を一切捨てても問題がでない。近くにコンビニがあるなら冷蔵庫を持たなくて良い議論と同じで、認知範囲の外側にアウトソースすることで自分の物は極限まで減らせる。供給が止まらなければ、だけど。

物を捨てたい病と新しい物を増やす共犯関係

 物を捨てたい依存症とと捨てられる物が増えていくことにも共犯関係があって、それは「どうせ持たなければならないのなら、お気に入りの物を持つようにしよう」から生まれる。新しい物が快適ならば古い物を躊躇なく捨てられる理由になるし、いまいちであっても新しい物を捨てられる理由になる。

 計画的に「いま持っている物に不満を抱かせる」ための手法は計画的廃品化と呼ばれる。計画的廃品化とは大量生産・大量消費を維持するために商品を計画的に廃品化させて次の購買欲求を発生させるためのプロセスである。

 もちろん、いかに不満を持たないように吟味をするかと言う視点が大切になるし、ひとつの道具で色々なことが解決できないかを考えるようになる。片付け可能な認知範囲の既定と言い、同時に解決できるお気に入りの道具選定と言いキャンプのパッキングにすごく似ている。

 自分自身も部屋にいることが増えたからこそ部屋の環境を気にするようになった訳だし、お気に入りのキャンプ道具を選定して家の中でも使い倒す快適さを知っている。本書自体に自己啓発的な有用性がある訳ではないけれど、自分の考えをまとめるきっかけとして話半分に楽しめる漫画であった。