不用品を手放す夏
あまりブログを更新していなかった夏の間に何をしていたのかと言えば部屋の片付けや不用品の売却であった。これを機会にフリマアプリを使おうとも思っていたのだけど、梱包とかクレーム対応とか色々面倒になって持ち込み買取のできるビックカメラやブックオフなどを活用。お金の話よりもクローゼットや押し入れの物を減らしたかったのだ。
iMac の売却と M1 MacBook Air への移行も大きなイベントであった。リモートワークが前提になったり、新しい製品に買い替えていたりすることで生活空間が変わっていく。押し入れに文字通り押し入れておけば当面は目の前からなかったことにはできるが、無駄なスペースに家賃を払っているのには変わりがない。そんなわけで、どんどん不用品を手放していったのだけど現世利益型の反出生主義との思想的な接続を感じたりもした。
意外な収入とそれに使ってきた金額の問題
現在は iPad の Siri と hue にスマートホームを統一したので Amazon echo や Google Home なども不要。失敗したのはオーディオ機器類。過去にはスピーカー沼にハマっていたが結局は集合住宅なので低音を鳴らしたりは躊躇するし、配線の取り回しや掃除の邪魔になるからAirPods Max の空間オーディオに統合。ここから先も変わっていくのかもしれないけれど、Apple のタブレットとヘッドフォンの方向性になっていくのだろう。
AirPods Pro にアップグレードして不要になった AirPods が6,150円。Apple Watch で不要になった自動巻き機械式時計が5,200円。最近はロレックスの中古価格があがっていると知っていたから『開運なんでも鑑定団』のノリでプレミア価格になってくれるんじゃないかと期待したけれど、オリエントスターはそこまで価格が付かないとのこと。Oculus Quest 2 も14,000円で売却。服や鞄や靴は本当に二束三文。
ガジェット類の箱や付属品なども取っておいたので想像よりはお金が戻ってきたが、その20倍以上は払ってきている。これには「その時は必要だった」という観点と「当時の自分は馬鹿だった」という観点がある。また新しいものを買いたくなった時の熟慮を促すためにも「痛み」を感じられて良かったとさえ思っている。
マジック:ザ・ギャザリングのカードが高額買取
合計すると21,390円。当時は簡単に手に入った4枚のカードが、それだけの価値になっているというのは不思議な感覚である。今からマジックをやるとしても、iOS版などの電子ゲームで遊ぶわけで、売り出す事にもやぶさかでない。
良い意味で裏切ってくれたのはマジック:ザ・ギャザリングのカード。7年前に今売れば2万円ぐらいになると言われていたMTGのカードがさらにバブルになっている。ネット買取の場合は言い値になってしまうし個人売買でトラブルになるのも面倒なので、高価買取ショップの比較をして現地で鑑定。
結論から言えば、合計36,300円。『裏切り者の都』は状態がよければ25,000円だったが僅かな傷があったので18,800円。状態の良い『セラの聖域』は15,000円。逆に『実物提示教育』や『騙し討ち』は相当下落してしまった。ちょっとした投機対象にすらなっていると感じるが、自分が持っていても仕方がないカード達だったので市場に放流。
ミニマリズムと現世利益型の反出生主義
高級時計や高級車は所有しているうちに市場価格が高くなりがちなので、所有している間は楽しんで一定期間で手放す遊び方ができると言うが、マジック:ザ・ギャザリングについても同じようなことができていた時期があったらしい。マイナーメーカーの中古売買は二束三文にされてしまいがちだがApple製品やロレックスはそれなりの価格で買い取ってもらえるリセールバリューこそが内在的な価値なのだろう。
それはさておき、不用品を整理して思ったのは手放してしまえば無理に活用方法を考えたり、保存状態や押し入れの容量などを気にしなくて良いという快感。ないものに対しては執着も発生しないし、最初から買わなければ憂鬱が発生しない。
これを推し進めると、エリート家族の子供が引きこもった挙句に通り魔になるような恐怖(テロル)と、どこか情緒に欠けて他者の痛みをあまり理解できない自分がちゃんと子育てできるとは思えないといった感傷が重なりあうことによって反出生主義的な傾向を後押しするような理路が個々人に生まれえる。
つまりミニマリズムを進めていくと現世利益的な反出生主義との接続が見えてくる。本来的な意味での反出生主義はあくまで「生まれてくる子供の不幸の発生確率」を憂う思想であるが、実際的には自分を含めて「生まれてくる子供の不幸に巻き込まれる自分自身の不幸の発生確率」という極めて現世利益的であり、露悪的に言えばコスパの観点を憂いている人々のが多い。
熊澤英一郎殺害の事件においては父親からのコミックマーケットやTwitterなどを通じた真摯なコミュニケーションを経ても改善せずに直接的な殺害に至ったが、他のケースにおいても「二度と施設から出さないでください」「あの時救急車を呼ばなければ」と間接的かつ消極的な殺人を示唆されることは珍しくもない。
そして、家族は不要になっても簡単には手放せないからこそ、間接的に「なかったこと」にするために『「子供を殺してください」という親たち』さえ出てくる。自分自身がそうなる確率は著しく低いのかもしれないが、その可能性を完璧になくすゼロリスク思想にこそ心の安寧がある。少なくとも不用品を格安で買い取ってもらったり、有料で引き取ってもらう痛みは予行演習的に心身に刻んでいる。
全てを「やるべきことでなかった」とみなしていく罪
発達障害の人は「やるべきこと」のために「やりたいこと」の総量を削減できない傾向があるので、労働で日中に失った自分の時間を夜に取り返そうとして睡眠不足になる『リベンジ夜ふかし』と呼ばれる行動パターンに嵌りがちなのだが、それが生活リズムやQOLを崩壊させる元凶になってるみたいなんだよな
— 凹凸ちゃんねる (@hattatu_matome) 2021年9月3日
自分自身の性質からしても「やるべきこと」が増えていくとミラー的に「やりたいこと」も増えて破綻することが分かっているので、「やるべきこと」自体をどんどん減らしていく方向性になった。nosh とベースブレッドとプロテインの定期配達をしているのも買い物や料理や片付けや洗い物が最初からなければ、そこに拘る時間消費や意思力低下がなくなるからだ。
もちろん、効率的な買い物や料理や片付けや洗い物のやり方もあるのだろうけれど、そもそも「やらなくてよいこと」にしてしまえば効率化する必要もないし、やらないことには失敗しないという点で、現世利益追及型の反出生主義との接続があるし、労働さえも「やらなくてもよいこと」に出来る FIRE ムーブメントも同じ地平にある。独り暮らしのミニマリストである方が年間利用額の25年分を貯める難易度が低くなるのは当然だ。
自己啓発やメンタルヘルスの観点から言えば「やるべきこと」の枷を外していくのは正しいし、そうしないと破綻する程度の自己評価の直感に従って慎重に暮らしているのだけど、全てを「やるべきことでなかった」と徐々にみなしていく人生を進めていって良いのかと思うこともある。それこそが感じなくても良い動物的憐憫なのかもしれないけれど。