村上さんのところ
新潮社による期間限定サイトが公開されて、村上春樹に質問ができるようになっている。過去にも同様の取り組みはあったのだけど、もう質問できるような機会は用意されないものと考えていたので嬉しい。僕から送ったいくつかの質問への返信は頂けてないのだけど、周りではいくつかの質問が取り上げられているそうだ。そんな問答のひとつに以下の内容があった。
走るときにはiPodは必需品です。一台に2000曲くらい詰め込んだものを三つくらい持っていて、それを聴きながら走っています。それだけ曲を入れるのってすごい労働だったです。便利だけど手間のかかる世の中です。
この回答を呼んで身体が仰け反るぐらいの衝撃を受けた。
音楽とコンピュータをからめたくはない
と、いうのも、僕の座右の銘のひとつに村上春樹の以下の言葉がある。
今のところは僕はまだ音楽とコンピュータをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように。
サークルクラッシャーにフラフラっとなりそうな時も、男女の友情関係が壊れそうな時も、文化系説教説教ジジイとして優位に立てそうな時も、この言葉を思い出してきた。現在となっては潔癖すぎたのかもしれないと思いつつも、健康で文化的で打算の絡まない感情操作を心がける「試み」はしてきたつもりだ。
だけど、「今のところは」とある通り、彼にとって「音楽とコンピュータを絡めない」のは「期間限定の思想」だったんのである。
過去のハルキストと現在の村上主義者
ところで、村上春樹の熱心なファンのことを「ハルキスト」と呼ぶ。僕は多分にミーハーなハルキストになっているという自覚があって、大学時代にはピーナッツをかじりながらビールを浴びるほど飲んでいたし、パスタを茹でてランニングをして、文章を書くときは未だに「もし僕らのことばがウィスキーだったなら」やら「文化的雪かき」やらを念頭に置いている痛々しい事実がある。
この「ハルキスト」なのだけど、同じサイトで「(熱心なファンは)『村上主義者』というのがいいような気がします」と答えられている。知っていて意図的に「ハルキスト」と言わなかったのかは不明だけど、今現在のファンは「ハルキスト」ではなく「村上主義者」と呼ぶべきなのである。
僕は「村上主義者」というのがいいような気がします。「あいつは主義者だから」なんていうと、戦前の共産党員みたいでかっこいいですよね。地下にもぐって隠れキリシタンみたいにみんなで『ねじまき鳥クロニクル』を読んだりして。
人は少しづつ変わっていくが、その文章は永続である
生きている人間は少しづつ変わっていきますが、過去に公開された文章は永続的に残っていく。もう本人の手からは離れて古くなった教義に固執していた自分を知ることが本当に良かったのかの判断はつきかねるが、村上春樹がランニング中にiPodを使っていると答える未来に自分がいるのだと思うと感慨深くもある。
「生ける伝説」によって伝説が更新された暁には、個人的な信仰における教義も更新されるべきかという命題となる。つまり、「ハルキスト」のまま過去の問題意識に寄り添い続けるのか、「村上主義者」に転向して過去の問題からは「デタッチメント」をして現在の問題に寄り添うのか。そんな選択肢が提示されている。大半の人にとってはどうでもよい問題なのかもしれないけれど、なんとも贅沢な悩みである。