太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

熊代亨『何者かになりたい』感想〜アイデンティティ獲得の攻略本と主体的な選択の余地に悩める幸運への感謝

何者かになりたい

「何者かになりたい」 と思ったことがなかった

「自分」に満足できないのは、なぜ?
〈承認欲求〉〈所属欲求〉〈SNS〉〈学校・会社〉〈恋愛・結婚〉〈地方・東京〉〈親子関係〉〈老い〉
アイデンティティに悩める私たちの人生、その傾向と対策。

「何者かになりたい」
多くの人々がこの欲望を抱え、それになれたり、なれなかったりしている。
そして、モラトリアムの長期化に伴い、この問題は高齢化し、社会の様々な面に根を張るようになった。
私たちにつきまとう「何者問題」と、どうすればうまく付き合えるのか。
人と社会を見つめ続ける精神科医が読み解く。

 「何者かになりたい」という感情について、実のところあまり抱いたことがなかった。もちろん人並みのロールモデルを思い描いてはいたが、それは健康で、家族や友人がいて、お金に困らず、趣味が楽しめればといった類のものばかり。「健康で文化的な暮らし」は別にシニカルな話でもない。強いて言えばそれ自体が目指すべき「何者」であった。

 現代における「何者」は肩書きや達成によるものが多いだろう。本書にもある通り、少なくとも「他人から見て何者かに見える」効果がある。はてな村最大のミームである「単著もないのに」はまさにそうだ。電子書籍でお手軽出版がなされている現代においては「紙の単著」であることが必要かもしれないけれど。

 しかし、それだけでは自分自身が「何者かになりたい」という問題を直接的には解決しないという。では、「何者かになりたい」とはどのような問題なのだろう。マズローによる欲求のピラミッドやコフートによる自己心理学などの具体例として何となく知っている話が続きつつも何者問題の解決には至らない。所属欲求からのオンラインサロンやネトウヨが触れられていることに現代の文体を感じた。

本書における「何者かになりたい」とは?

「何者かになりたい」とは「アイデンティティを獲得したい」のことである

(中略)

 この本では、アイデンティティとは「自分はこういう人間である」と言う自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素のことだと思ってください。

 読み進めるうちに上記が提示されて、これはエリクソンの話なのだと理解した。

ティーンエイジャーは、職業、性的役割、政治、文化、宗教によってアイデンティティを獲得しなければならない。
エリクソンアイデンティティ危機(identity crisis)またはアイデンティティ拡散(Identity diffusion)という言葉を作り出したとされている。これまでの発達段階でもそれぞれの危機があったが、この用語は、幼児期から成人期への移行を指している「これまでも幼児期から少年期までの間に、多くのアイデンティティが形成されてきたが、青少年のアイデンティティーにおけるニーズはそれらでは満たされない」ために、この段階が必要となっている。ヒトの発達におけるこのターニングポイントは、「どういったヒトとして育ったか」と「社会から望まれているヒト」との和解であるとされる。
この新しい自己意識は、過去の経験をもとに、未来を見据えて鋳造しなおすことによって産まれる。

 僕個人の理解としては、生育過程における「自分らしさ」と社会の様々な側面から提示される「複数のしばしば矛盾した」ニーズとの折り合いをつけていくうちに、社会生活を快適に営む個々の要素を獲得していくことだと考えている。なぜ複数のニーズが同時多発的に必要になるのかと言えば、大抵の問題には単一正解が存在しない前提を受け入れて自分自身で葛藤する過程こそが成熟だからである。

 アイデンティティの問題は基本的に思春期からのモラトリアムが続いてる人々に向けてのものであって、中年になった自分が「その問題は通過済みだ」と張り合うのもおかしいのだけど、中年になってからの問題も後ほど語られる。

アイデンティティ獲得の難易度と深刻さへの攻略本

 本書では自分を形作るカードゲームのデッキを構築するための戦略と、それぞれのフェイズにおけるカードの効果や注意点が挙げられており、さながらゲーム攻略本のような印象を受ける。アイデンティティの獲得そのものには何らかの「優越的な要素を得たい」という意味は含んでいないが、そこでの高望みや渇望こそがこのゲームの難易度や深刻さに結びつく。客観的な実力よりもプライドが高すぎたり、逆にプライドが低すぎることも失調の原因となる。

 特に現代においては職業、性的役割、政治、文化、宗教のそれぞれを決めなくても生きていける年代がどんどん後ろ倒しできるので、いつまでも悩める余地が生まれてくる。選択肢があるように見えることは素晴らしいが、選択肢があるから悩みが生まれるし、歳をとってからの難易度は大幅に高くなっていることが多い。今からサッカー選手になるのは無理だ。

 アイデンティティを求める気持ちがこじれてしまう状態は「アイデンティティ拡散」と呼ばれる。こちらについては精神医学辞典の引用としてまとまっているが綺麗に理解できた。自意識が過剰で悪のキャラクターに憧れを伴う存在を「中二病」と呼ぶのは笑った。他にも発達障害の影響なども出てくる。

 また自分だけの話でアイデンティティを獲得するよりも、パートナーや子供などに意識の重心が変わっていくことが望ましい。しかし、自分のアイデンティティが固まっていないうちは、恋人やパートナーを「自分自身のアイデンティティの構成要素」として意識してしまうという。相手よりも「恋人を持った自分が欲しい」という状態においてまともな関係性の構築は難しい。アイデンティティとして必要になるのは、相手に感じる交換不可能性である一方で、喪失による失調のリスクもある。

ミームを残した実績のアイデンティティ

 「自分が何者か」という問題にさっさとカタをつけて他者や後進への目線を持てる人に再配置されるべきという話と、他者や後進への目線を持つことで「自分が何者か」という問題が相対的に重要ではなくなっていくのはニワトリ卵的な話ではある。それができないから自意識過剰の「非モテ」という自己規定があったのだろう。我々は非モテだから故に物理的な遺伝子は残しにくい。でも、だからこそミーム(意味的な遺伝子)を残すことが適者生存戦略であった。

 僕自身の場合は複雑な契約条件や解約忘れなどによる不注意を発生させて違約金を取る「フールペナルティ」という言葉を出して各種サイトに取り上げられたり、SNSでバズったことがあるのだけど、Twitterなどで検索してみればいまだに使う人がいる程度の影響は残っている。その意味では過去の実績をコスり続ける人類になってしまったのかもしれないけれど、印税のように自己愛が時々振り込まれる固定資産を残せたのは大きい。

大人になってからのアイデンティティ問題が「中年の危機」

 当事者性を持って興味深く読んだのは大人になってからの問題だ。当初から述べている通りに僕自身はあまり「何者」問題を認識したことがないのだけど、だからこそ破滅的な問題にもなりうるリスクがあるとも感じている。

そうした"清水の舞台から飛び降りる"起爆剤となる不満を、自覚するよりも早く他人に察知されてしまえば、たとえば若い異性や詐欺師にマニピュレートされてしまうおそれもある。このような、自覚はできないけれども他人からは透けて見える不満や欲求は、心のセキュリティーホールとして手玉に取られやすいからだ。

 自分自身の本当の不満を自覚するのは難しい。そりゃチヤホヤされたいし、お金も欲しいけど、そうならないから不満ということはあまりない。大したことのない自分がチヤホヤされたら居心地悪く感じてしまうから透明になりたいし、生活に使う以上のお金をもらっても口座の数値が変わるだけだ。この手のセキュリティホールは幼少期のトラウマではなく青年期のアイデンティティ獲得問題の未練が復讐してくる。

よくあるパターンのひとつは、仕事や事業に時間や情熱を尽くしてきた人が、なんらかの理由で仕事や事業を続けられなくなってしまった場合です。この場合、収入や外聞といった世間的な問題に加えて、自分自身のアイデンティティの大部分を占めていたものを失ったあとでどうやってそれを再構築するかという、難しい問題に迫られます。

 次に問題となるのは「喪失」だ。でも良くも悪くも仕事への執着は少ないし、両親や兄弟以外の家族もいない。結局のところで自分のアイデンティティとしてあるのは、バーナード・ショウ曰く「銀行の預金通帳」となるし、それを守護るためにも余計な関係性や執着を作らないところはある。預金通帳とハンコが盗まれて壊れるのは『闇金ウシジマくん』のフーゾクくん編で見たけれど。

自身のことを翻ってみるに普通に働いて、普通に遊んで、普通に生活しているわけで、特に生きづらさを感じてないどころか、コンフォートゾーンに浸かっているとさえ言える。しかしながら、スーパーマリオでいえば5-4ぐらいでフリーズしてしまう選択肢を選び続けてしまったと思い返すことはある。

 本田透がいうところの「がっかり力」を鍛えることによって護身完成してしまったので、個体としての「中年の危機」のリスクを下げることには成功しているが、結果的には反出生主義に近いハビトゥスになっており、長期的には淘汰される側になる。仮に「老化」がなければジョジョの奇妙な冒険におけるカーズになれたのだけど、禁酒と睡眠と筋トレでアンチエイジングし続けるのも若作り鬱の隘路に至る。本気で婚活するなら5年前ぐらいがタイムリミットだったね。

主人と奴隷の弁証法と悩める幸運

人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。そこで人々の間で相互承認を求める闘争が生じ,必然的に勝者=主人と敗者=奴隷が生み出され,その結果,奴隷は労働し,主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り,自己を形成することができるが,主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。

 生活するためのお金が必要だから命を削って働く奴隷となったが、労働を通じた複数の矛盾した要求によって形成された自己もある。その上で自分ひとりの質素な生活のことだけを考えるのであれば主人になっても良い機会に選ぶべき選択肢はなんなのかという迷いがある。

「何者かになりたい」という願いも、「自分は何者でもない」という悩みも、人間が変わり続けるからこそ出てくるものです。家柄や身分によって何者かがあらかじめ決まってしまっていた社会では、そのように悩むのでなく、家柄や身分によって「何者かにされてしまっている」ことを悩んだことでしょう。私たちの人生に自由選択の余地があり、私たちが自由だからこそ、私たちは自分自身の構成要素を自分で選べますし、選ばなければなりません。それが願いを生むと同時に、悩みが生まれる下地ともなります。

 可能性の収束期間が長大化されて、選択できる余地ができていくことは素晴らしいが、選択には結果責任が伴う。冷笑的に何も選ばないという選択をし続けられる気分にさせてしまう時代だけど、加齢は着実に進んでいく。だったら、「健康で文化的な暮らし」を維持するための選択肢を主体的に選びとっていくために悩むこと自体が自分にとってのアイデンティティ獲得なのかもしれない。悩みをなくすのではなく、悩める幸運に感謝すること。自動運転モードなら今すぐ死ぬのが最もコスパが良い。