太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

今村夏子『あひる』感想〜現実と直交する「やった感」によって「にぎやかな我が家」を作り出そうとするカーゴ・カルトの悲哀と祝福

あひる (角川文庫)

今村夏子『あひる』

我が家にあひるがやってきた。知人から頼まれて飼うことになったあひるの名前は「のりたま」。娘のわたしは、2階の部屋にこもって資格試験の勉強をしている。あひるが来てから、近所の子どもたちが頻繁に遊びにくるようになった。喜んだ両親は子どもたちをのりたまと遊ばせるだけでなく、客間で宿題をさせたり、お菓子をふるまったりするようになる。しかし、のりたまが体調を崩し、動物病院へ運ばれていくと子どもたちはぱったりとこなくなってしまった。2週間後、帰ってきたのりたまは、なぜか以前よりも小さくなっていて……。なにげない日常に潜む違和感と不安をユーモラスに切り取った、著者の第二作品集。

 コミュニケーション齟齬の絶望を描いた『こちらあみ子』を書いた今村夏子の第二作品集。表題作の「あひる」に加えて「あばあちゃんの家」「森の兄妹」の三篇が収録されているが、今回は「あひる」についてのみネタバレを前提に語りたい。

 平易な文章と「にぎやかな我が家」というありたいシステムにおける代替可能性の象徴としての「あひる」を分かりやすく描きながら、もっとグロステスクなものが見えてくる構造。ピクニックを読んで何も感じない人間にもグラデーションがあったようにこの作品にも理解のグラデーションがあると感じた。

子供が独立した後のペットがもたらす安寧

 信仰宗教の信者である両親。その娘であり部屋にこもって資格試験に明け暮れる「わたし」。ヤンチャだったが10年前に家を出て現在は結婚して仕事が忙しいと顔を見せにこない弟。あまり会話のない家族になっていたが、父の同僚から譲られた「のりたま」と呼ばれるあひるを飼い始めたら、近所の子供が家に遊びに来るようになり、「あひる」を媒介にしたコミュニケーションが始まる。

 僕自身の実家でも息子たる自分の手がかからなくなった頃から猫を飼い始めて、それを見にくる親族や家を出た自分が実家に行く理由になっていたし、その後には犬を散歩させながら近所とのコミュニケーションを円滑化していた。人はペットが媒介することで他人を正面から相手にするよりも饒舌になれる。

 父の同僚からの手紙に同封されていた孫の写真と「にぎやかな毎日です」という文面。あひる目当ての子供が来て「孫ができたみたいだ」と喜ぶ両親。娘の「わたし」は部屋に引きこもっているし、弟夫婦には子供ができず、顔を見せにも来ないという現実を埋める代替手段を呼び込む媒介物として「のりたま」は欠かせない存在となる。

個々の祈りという現実と直交する努力

 しかしながら、あひるの寿命は人間よりも短くて弱い。あひるの寿命は5〜20年と言われているが、譲られた時点で成鳥になっているし、飼育環境下のストレスにも決して強くない。

 配合飼料や野菜くずだけでなく、魚やお米など、出されるものを何でも平らげていたのりたまの食欲が、徐々に落ち始めていた。

 あひるを長く飼うために必要なのは栄養バランスを取ることなのに旺盛な食欲の通りに食べさせていたし、環境の変化や慣れない人に触れさせ続けてストレスにも晒している。

 遊びにきていた子供たちも、のりたまの様子がおかしいことに気がついた。二階の部屋にいると、外からのりたまを心配する声が聞こえてきた。あひる小屋を囲んで名前を呼びかけたり、お見舞いの花を摘んできて、小屋の前に置いて帰る子もいた。
 母はお祈りに一時間近く費やした。

 「わたし」は図書館で病状を調べて原因に思い至っているが、家族でしている事は「お祈り」であり、名前を呼びかけせ続けることだけである。そうやってうるさくされる事自体がストレスなのかもしれないのに。

 毎日1時間のお祈りは食事や環境を整えたり、病院に連れて行くことよりも余程大変なのに個々人が「祈る」という解決策しかできない所に歪みがある。それはきっとヤンチャだった弟に対する家族同士の問題に対しても行われてきた事であり、言わなくても通じるであろうとする自己完結だけが拠り所であったことを想起させる。

代替部品としてのペットよりもグロテスクなこと

 病院から二週間後に帰ってきた「のりたま」はなぜか小さくなっていて特徴も異なっているが、帰ってきたあひるも「のりたま」として扱われて子供たちは再び家にくるようになる。

 「にぎやかな我が家」を維持するための構成パーツとして代替品を用意する残酷さにゾッとはするし、それがひとつの主題ではある。しかしながら、死別したペットを改めて飼い直すこと自体は一般的な話でもあり、それ自体はミステリーでもホラーでもない。

 おかしい。
 これはのりたまじゃない。
 わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。
「どうしたの?」
 父と母の声が揃った。二人とも、不安気な目でわたしを見ていた。
 のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?  でも、何も聞けなかった。

 真のグロテスクさは、ちょっと似ていて同じ名前さえつけておけば子供に見分けなんて付かないであろうという粗雑さと、その粗雑さに対して「空気を読め」と無言のコミュニケーションを試みる奇妙さの同居にこそある。家族のそれぞれに人間的な意思があるのに関わらず肝心なことには粗雑で、自己完結な思考と祈りとしてのみ表出される努力の痕跡。

言わなくても感じ取ってもらえると思い込み、何もしないでいることほど傲慢なことはない。コミュニケーションを怠けることが、どれほど周りの人間を混乱させ、傷つけるか、父に教えてやれるのは自分だけかもしれない。

 柚木麻子の『ナイルパーチの女子会』においては、怠惰なコミュニケーション隘路が描かれていたが、本作品においては「何もしない傲慢さ」ではなく、むしろ調べたり、祈ったり、考えたり、不安気な目で見るという現実とは直交する「やった感」で満ち溢れている。

 本作においては「新興宗教」という分かりやすいヒントによって寓話化されているが、「やった感」や「やってる感」の問題は厄介だ。コロナウィルス対応に雨ガッパを拠出させたり、答えの出ない問題について夜通し会議したり、雨乞いや御百度参り。しばしば現実の問題を解決する方法とは異なる苦労が美徳とされる。「毎日1時間の祈り」のように。

構成要素への解像度の低さはカーゴ・カルトを生み出す

 次の「のりたま」も粗雑に扱われて、綾波レイのようにまた新しい「のりたま」が来るが、今度は姿も明確に違う。そもそも子供を呼び込むためにあひるを飼ったのではなく、父の同僚から譲られたあひるを飼ったら子供が来たという因果関係であり、意図して起こした「明るい我が家」に至る方法ではない。

 「明るい我が家」という理想のシステムに欠けたのは「のりたま」であるが、あひるに他の名前を付けたり、他の動物を飼ったり、ファミコンを導入したり、もっと言えば弟と会話することでも代替できた。しかし、あひるの病気に対する解決策と同様に構成要素への解像度が低いからこそ、新しいあひるを探して「のりたま」と名付ける現新比較による再現性を維持せざるを得ない。

 かつてのニューギニア島では工業製品を積んだ飛行機が到着して文明の利器を手に入れてから、藁で実物大の飛行機模型や滑走路を作って飛行機という神を呼び込む儀式が盛んに行われるようになってカーゴ・カルトと呼ばれたのだけど、自分の島も全く同じ状況にある。

 この家族は「のりたま」という思わぬ飛行機の直陸を受けたカーゴカルトなのだ。だからこそ、異なるあひるに同じ名前をつける客観的な粗雑さと、とはいえ苦労して代替部品を見つけてきた主観的な「やった感」の祈りが同居する。

「きみは……」
 そこに立っていたのは色白の小柄な少年だった。まぶしそうに目を細めて、父の顔を見上げていた。
「きみは、えーっと」
 誰だったかな、というように、父は母のほうへ助けを求めるように振り返った。  母も名前が出てこないようだった。

 システムにおける個々の構成要素に対する解像度の低さは訪問して家で遊んだり、お菓子を食べにくる「子供たち」に対しても現れる。「にぎやかな我が家」というシステムにおいては子供たちが家に訪問して騒いでくれることが重要で、個々の「子供たち」には興味がない。あひるの見分けが付かないように「子供たち」の見分けもつかないのだ。

 背の高い子、赤い髪の子、上半身裸の子、旅行に持っていくような大きなバッグを抱えている子……。色んな子がいる。

 子供たちへの解像度の低さは後の記述で想像以上であったと知らされる。当初訪れていた小学生の来訪者はとっくにいなくなっていて、それなりの年代の不良や家出少女達の溜まり場に変わっていたが、「子供たち」のまま見ていた。最初の説明にあった通りに、結婚や就職をした弟が家を出てから10年ともなれば「わたし」は30代以上であり、その両親は60歳前後であろう。それだけ年齢が離れていれば小学生も高校生も変わらないのかもしれないが、それにしたっての話だ。

澤村伊智の『ししりばの家』の主題との類似性

 「にぎやかな我が家」というシステムを代替可能な部品で維持しようとする作品には澤村伊智の『ししりばの家』が挙げられる。久々に会った友人の家には知らない人が「おばあちゃん」として住んでおり、家族の誰かが死ねば「次」が補充されていく怪異。異なる人が代替されていくと周りの人には分かる粗雑さも含めてよく似ている。

 澤村伊智の『ずうのめ人形』における作中内の自伝的小説において「直前直後の描写がひどく曖昧」な部分にこそ真実が隠される構造が描かれているが、「書き手」は無意識のうちに文章内における自身の描写や内心を取り繕ってしまいがちだ。『ピクニック』も三人称ではあるが、ひとりの内心しか描かれないという点において極めて私小説的であり、それでいながら手持ちカメラは被写体としての七瀬さんを追い続けて恣意的に描き出すドキュメンタリーでもある。

 今村夏子の『ピクニック』には澤村伊智の『ずうのめ人形』に似た仕掛けがあるが、奇しくも『あひる』には同じ澤村伊智の『ししりばの家』に似た仕掛けがある。

 『ししりばの家』が参考にしているのは三津田信三からなる家系ホラーの系譜だ。家系ホラーにおいては、住んでいるからこその「怪異の日常化と解像度の低下」が題材となりやすい。奇妙なしきたりがあったり、なぜか悲鳴が聞こえたり、特定の場所がカビたり。客観的に見ればおかしなことであっても、毎日のことであれば解像度が下がって問題を問題と認識できなくなる。

 ある種の過剰さを含んだ怪異と舞台装置を伴うホラー小説が描き出そうとしている本質との一致が『あひる』にはあるが、今回の作品世界内にあるリアリティラインはあくまでほのぼのとした日常として回収される。日常に潜む「不穏さ」を描きながら、あくまで決定的なことは起こらないし、手放しのハッピーエンドと言っても良い帰結に至る前のちょっとした起伏に過ぎないとも見える。

「わたし」の透明性と発見

 ところで、「わたし」が初めての仕事をするためには資格を取る必要があるが、資格を取るためには勉強する必要がある。勉強をするためには集中できる環境が必要であるが「にぎやかな我が家」は形を変えてうるさくなり続けるから、また試験に落ちることになる。

 本作品の「わたし」は今村夏子作品には珍しくカメラと思考が一致しながらも、物語世界に対しては透明人間のように殆んど無影響であり、勉強に集中できるように静かにしてやろうという家族からの思いやりからも外れている。

 子供が発した「人がいる」という語には気味の悪さがある。その気味の悪さにはたぶん複数の意味が隠れているが、そのひとつは「わたし」が意外な存在であるということだろう。
 男の子はあひるを中心とするシステムのなかでは安定した存在であり、あひるという価値を体現する要素である。そういう存在にとって「わたし」が意外であるということは「わたし」がシステムの外にいる可能性を示唆する。

 傍観者として2階の窓から眺めていた「わたし」を子供が見つけることによって、覗き穴を発見されたかのような居心地の悪さを感じさせる。それは一連の状況に当事者として参加して、地の文では思考しているのにも関わらず無言の自己完結しかしていない「わたし」への憑依体験であり、「これはのりたまじゃない」と思っても見上げることしかできない自分自身を意識することである。

新興宗教にハマった理由

 わたしは窓を閉めて勉強の続きに戻った。でもすぐに飽きて、机の引き出しを開けてもう何千回と目にした一枚の写真を取り出した。
 それは、生まれたばかりの赤ちゃんの写真だ。わたしはまだ会ったことがない。赤ちゃんは男の子だ。小猿そっくりで、眉毛の形は弟そっくり。

 「何千回と目にした」が引っかかる。本当にこれは今回生まれた弟の子供の写真なのだろうか? 半年で何千回もみているというのは考えにくいので、「わたし」の弟なのか、弟夫婦の最初の子供なのか誰かの死が関わっていることが想起される。それは「わたし」が医療系の勉強をしている理由にも、家族が新興宗教にハマった理由にも関わっているのではないのか。

カーゴ・カルトの悲哀と祝福

のりたまの小屋は工事が始まると同時に 潰された。庭にブランコを置くのだそう。

 結婚8年にして弟夫婦に子供が生まれたと報告されたら「にぎやかな我が家」のために「のりたま」という藁の空港を整備する必要なんてなくなる。「やった感」の羅列は、結果として停止した「にぎやかな我が家」というシステムは一度のシステムの外側にでた者によって報われ、また彼らはシステムに取り込まれる。それは最大の祝福でありながら、次に孫の体調が悪くなったり他の問題が起こった場合の呪いを同時に想起する。

 子育て、親学、ガン治療。粗雑な解像度で「やった感」を与えるためのオカルトは日常生活のそこかしこに忍び寄る。次に「にぎやかな我が家」というシスステムに障害が発生した時に、取られる手段が新しいあひるを飼い始めて「のりたま」と名付けることではないことを祈る。その祈りにさえも現実と直交する無力な「やった感」が宿っている。