太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

今村夏子『ピクニック』を読んで何も感じない人間と外部の語りにこそ本質が宿るドキュメンタリー

こちらあみ子 (ちくま文庫)

『ピクニック』を読んで何も感じない人間

 既に32回ぐらい詳細なネタバレをくらって高精度な脳内上映ができるようになってしまった『花束みたいな恋をした』。本作に「『ピクニック』を読んでも何も感じない人間」という台詞が二回あると教えてもらって読んでみたのだけど、この「何も感じない」にはグラデーションがあると思えた。

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

 『ピクニック』は太宰治賞をとった今村夏子『こちらあみ子』に付属するシングルB面のような短編。敢えて出版社紹介の文章に出てくるわけでもない作品名を記号として使うのが『はな恋』っぽいが、映画と同様かそれ以上に感想戦が楽しい内容であった。ここから先はネタバレになってしまうので是非先に本書を読んでいただきたい。

「『ピクニック』を読んで何も感じない人間」のグラデーション

 地方にあるビキニとローラーシューズで接客をするお店に胸が大きくやや歳を取った七瀬さんが就職。彼氏が有名なお笑いタレントであることを川にまつわる馴れ初めエピソードを含めて告白するところから物語は始まり、いくつかの違和感と確信を読者に提示しながら川にまつわる行動を経て、七瀬さん不在のまま水辺での「ピクニック」で話は終わる。

 『放送禁止』は、フジテレビで不定期にやっていたフェイクドキュメンタリードラマであり、「事実を積み重ねることが真実に結びつくとは限らない」をテーマにしている。あくまで普通のドキュメンタリー番組のテイで放送しながら、いくつかの不審な点や違和感を伏線につみかさねて取材対象者の異常な行為や精神構造が明らかになっていくのだけど、そこに明確な答え合わせはない。

 明記はされていないものの、読後の余韻において「賢明なる読者諸君には既にお分かりだろうが」という江戸川乱歩の文章を強く想起させるようにも思えたが、まずはリドル・ストーリーという構造に気付かないで「『ピクニック』を読んでも何も感じない人間」になるグラデーションがある。

公園のベンチに座って鳩にエサを撒いている七瀬さんの姿を目撃したのは駅に向かう途中の午後一時過ぎと、帰宅途中の夕方六時前のことだ。同じ場所に同じ姿勢で座り続けていることに呆れはしたものの、今頃東京でデートしているはずのひとがこの町にいることには驚かなかった。

 七瀬さんが虚言癖であることは導入部からして比較的簡単に想起させるようになっているし、かなり明確に描かれているのだけど、そこまでで「2chまとめで読んだことある」と「『ピクニック』を読んでも何も感じない人間」になりえる次のグラデーションがある。

身体性の獲得と目的の手段化

 七瀬さんはお笑いタレントと出会うきっかけとなった川で失くした携帯電話を探すためにドブ掃除をしているが、それはすぐ近くの川上で捨てられている残飯を拾っているだけの徒労でもある。そして上手くなっていくドブ掃除を褒めるためにピーナッツを飛ばして口でキャッチさせるのはアシカへの餌付けを想起させる。

「うん。……いや待てよ違うな。なんでだっけ」 「携帯電話だよ」 「そうだ。携帯電話を探してたんだ」

 周りは作り込んだ「設定」すら忘れてしまっているが、ドブ掃除そのものが生きがいになり、七瀬さんは日に焼けて痩せた健康体になっていく。それは身体性の獲得と手段の目的化というある種の小康状態を作り出すが、それが病的な虚言癖のゆるやかな寛解と、既に周りからもアシストされて取り返しのつかないぐらいに膨らんでしまった「設定」とのギャップを産み、結果として七瀬さんは壊れる。わざわざ川に付き合ってまで、その幻想を頑なに守らせようとしたのは七瀬さん本人ではない。

善意を取り繕いながら外部に委ねるドキュメンタリー

あの夜からちょうど一年。振り返ってみるとルミたちは若かった。単にひとつ年を重ねただけではなくて、この一年間でいろんなことがわかってきた。たとえば七瀬さんのひととなり。

 二回目に読むとこの文章が効いてくる。単にひとつの読書履歴が追加されただけではなくて、いろいろなことがわかってからが本番であるという点である種の「ループもの」である。結論から言えば周りの人物達は虚言癖であることを理解しながらも面白さとロマンチシズムが混じった感情で「設定」を助けて後戻りできなくさせたり、いじめのような行動すらしていること。それでいながら叙述トリック的に善意を取り繕っていることこそが本題であろう。

 澤村伊智の『ずうのめ人形』における作中内の自伝的小説において「直前直後の描写がひどく曖昧」な部分にこそ真実が隠される構造が描かれているが、「書き手」は無意識のうちに文章内における自身の描写や内心を取り繕ってしまいがちだ。『ピクニック』も三人称ではあるが、ひとりの内心しか描かれないという点において極めて私小説的であり、それでいながら手持ちカメラは被写体としての七瀬さんを追い続けて恣意的に描き出すドキュメンタリーでもある。

 書き手としてはあくまで中立的な報道のテイを守ることによって、読み手側が重大な事実を知れるという構図がある。ましてや現代はSNSソーシャルブックマークなどのネタバレアシストが充実しているから個々人のリテラシー以上のものが期待できる。「映ってしまったもの」を混ぜ込みながら読み手のリテラシーに委ねるリスクが減ったのだ。

 『ゆきゆきて、神軍』や『虚空門GATE』のようにドキュメンタリーを撮る側は被写体を否定しないが、それを読み解くのは作品外にいる観客であり、仮に鑑賞者がひとりでは理解できなくても後の感想戦SNSなどによるネタバレアシストが外部に存在することが前提になっている。それでいて被写体に対するある種のロマンチシズムやセンチメンタルが免罪符のように同居する構造にさえ類似性がある。

外部の語りに本質が宿る

 『花束みたいな恋をした』においても、社会や自分の嫌な部分に半ば気づいても忙しさを言い訳に視野を狭めた自分ごとで取り繕って「直前直後の描写がひどく曖昧」になって悪意を感じなくなってしまうことや、それに半ば気づきながらも何も感じなくなってしまうことが言いたかったのだろう。知らんけど。

https://twitter.com/bulldra/status/1365085611493904391

 あれだけシン・エヴァのネタバレに気をつけてくれるお前らが37回目の詳細ネタバレをしても何も感じない人間になってしまうように、『花束みたいな恋をした』の本質も外部の語りにこそ宿る。そのための固有名詞の羅列であり、カップルを描いたモキュメンタリーであり、現代文の試験問題だ。この時の麦くんの気持ちを20文字以内で述べよ。

虚言癖だと知らないという罪と知りすぎる罠

 しかしながら、リドル・ストーリーという構造に気付かないで「『ピクニック』を読んでも何も感じない人間」になるというグラデーションには、虚言癖を虚言癖と気づかないままで純粋で良いストーリーとして楽しめる強さがあるし、それもまた「普通」なのだ。

・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。
結果として以上の2文は同じ意味でしょうか。 もちろん、答えは「異なる」です。けれども、中学生の正答率は57%にとどまりました。

 このような話を当たり前に聞くし、例えば飲み会でされた与太話を最初から疑ってかかる人は少ない。分かっていても指摘して気まずくなるぐらいなら話を大きくしてもらった方が盛り上がる。逆にネタとして分かるような誇大妄想話をしていたのに、あいつは虚言癖だと本気にされてしまうこともあるし、疑り深いからこそ「そんな嘘をついてなんの得がある」「そんな手間はかけないだろう」という話を信じてしまうといったことも起こりえる。

 虚言癖の解釈も現代文の試験問題じみているが、矛盾を指摘することが正解だとは限らない。知らないという罪と知りすぎる罠。そこに「自分もおかしいと思われながら泳がされているのかもしれない」なのか「職場に悪意のない虚言癖の人が入ってきたらどうしよう」とどこに感情移入するかの違いもでてくる。

 『ピクニック』を読んで感じすぎる人間もいれば、何も感じない人間もいる。そして語りのなかで「真実」を知って立場を変化させる人間もいれば、そうでない人間もいる。そこに正解はない。だからこそ語るのは面白いし、外部の語りにこそ本質が宿る作品は楽しい。