三秋縋『恋する寄生虫』
「ねえ、高坂さんは、こんな風に考えたことはない? 自分はこのまま、誰と愛し合うこともなく死んでいくんじゃないか。自分が死んだとき、涙を流してくれる人間は一人もいないんじゃないか」 失業中の青年・高坂賢吾と不登校の少女・佐薙ひじり。一見何もかもが噛み合わない二人は、社会復帰に向けてリハビリを共に行う中で惹かれ合い、やがて恋に落ちる。しかし、幸福な日々はそう長くは続かなかった。彼らは知らずにいた。二人の恋が、<虫>によってもたらされた「操り人形の恋」に過ぎないことを――。
潔癖症の青年と視線恐怖症の女子高生が出会って恋に落ちるが、その症状も恋心も特殊な寄生虫によってもたらされたものだったら? そんなテーマが描かれるSFラブストリーが『恋する寄生虫』だ。
スーパーハッカーで潔癖症の青年が不登校で寄生虫マニアの少女のお目付役をせざるを得なくなる導入部から互いの障害を克服していくための共同的な努力によって芽生えるプラトニックな恋心。淡いラブストーリーのようでありながらも「組織」を感じる不穏さと「感染」をフックにした接触禁止の枷とそれを壊していく様が描かれる。
物語の章だては虫に関する諺や作品名。スーパーハッカーの青年が作っているのはクリスマスにモバイル端末同士を通信遮断して孤立させるためのコンピューターワーム。ところどころに出てくる寄生虫に関する雑学と本来的には起こり得ない二人のラブストーリーがシンクロしていく。
物語の象徴となるフタゴムシ
フタゴムシは雌雄同体でありながらも初めて見た相手と交尾し、そのまま互いを離さないで活動し続ける。離れぬのは死ぬ時だけの二虫一体。フタゴムシの研究は物語にも出てくる目黒寄生虫館の設立理由にもなったと言われている。
目黒寄生虫館の展示物を紹介します。今回は、目黒寄生虫館の創設者である亀谷了(かめがいさとる)博士がお気に入りだったフタゴムシです。プラナリアと同じ扁形動物の仲間で、雌雄同体の1cmほどの寄生虫です。卵からふ化した幼生はフナやコイの鰓(えら)に到達し、吸血して成長しますが、発育が途中で止まってしまい成熟できません。
そこから先がこの寄生虫の変わったところで、合体する相手を探して鰓の上を徘徊し始めるのです。運よく相手が見つかると、お互いに中央背側にある突起を相手の腹側にあるボタン穴にはめ込みます。すると、2体が癒合し始めます。フタゴムシは哺乳類と違って、同種なら自分以外でも異物として拒絶されません。驚くべきことに、その後は互いの消化系、神経系もつながってしまいます。こうなってはもう、ひとつの生命体といってもよいでしょう。
生殖系では、卵巣から出た管が相手の輸精管に接続します。自らの卵を相手の精子によって受精させるわけです。一種の他家受精ですが、複数個体と精子のやり取りはできません。未熟のときに出会った相手と文字通り一体化して一生を過ごすのです。おそらく出会いの確率は低く、相手を選り好みする余裕はないでしょう。フタゴムシの癒合に愛を感じるのは、人間の思い過ごしです。
虫の生態にロマンチシズムを感じるのは人間の勝手であるが、そんなSFじみた虫がいるのであれば、異なる宿主に寄生した同士でないと交尾ができない虫もいるのかもしれない。プラナリア、クマムシ、他にも我々の想像を超えた世界が実存している。
器質的変化の影響下にある自由意志
そもそも自由意志と身体への器質的変化の関係性は難しい。少なくとも麻薬やアルコールによって性格が変わってしまう程度には寄生虫による影響も起こりえるし、そのような研究結果も出ている。
2018年、チェコの研究者がこんな発表をしました。ビジネススクールの学生は、そうでない学生よりもトキソプラズマの感染者が1.4倍も多く、しかも感染していたほうがビジネスの成功率は1.8倍に高まるというのです。
例えば、トキソプラズマ原虫は主に猫を媒介とする寄生虫で宿主となった人間に「恐怖心をなくす」といった器質的な変化をもたらす。その結果として、起業において大きなリスクを取って成功したり、逆に自殺する率が高まるとされる。起こっているのは恐らく脳の化学反応だ。
タイトルにもなっている「デス・ゾーン」とは、標高7500メートルを超えるヒマラヤ山脈内でも酸素濃度や気圧が極端に薄い地帯のことを指す。標高2500メートルを超えると気圧と空気中の酸素量が減っていくため高山病のリスクがあることが知られているが、さらに登り続けると生存が危ぶまれる領域となる。
栗城史多がマルチ商法や自己啓発や占いにハマりながらエベレストで帰らぬ人となる過程においても、度重なる低酸素状態で脳細胞に深刻なダメージを受けてある種の酩酊状態になっていた可能性もありえる。その場合に、彼が自由意志で危険行為をしていたのかは難しくなってくる。致命的なものでないにしても、我々が何かを思う時にそれが外部的かつ物理的な存在に影響されていないと言い切れることは少ないだろう。
物理除去が可能な呪詛と祝福の二虫一体
私は安堵しました。寄生虫がいることがわかって安堵するというのも妙な話ですが、たぶん、そのわかりやすい構図が気に入ったんだと思います。寄生虫さえいなくなればこの理不尽な恐怖から解放されるのだと考えると、私の心は一気に晴れやかになりました。
その一方で、この感情は物理的な寄生虫によるものであると明確に分かってしまったらどうだろう。ましてや駆虫薬を飲めば「治せる」ことが示唆される。物語世界において「治せる」対象は虫であれ、呪いであれ、洗脳であり、病気であれ、すっかりと影響がなくなることが期待される。
治癒行為をするかしないかも選択式だ。つまり元からの性格であったり、障害であったり、嗜好であれば「治せない」だけなのだが、その原因が虫であることが明示されることによって「治す」「治せるが直さない」といった贅沢な選択肢さえ生まれる。その選択肢を選ぶ自由意志もまた器質的変化の影響下にあるのだけど。
自身のアイデンティティとなっていた障害と恋心を「治せて」しまう切なさと、それさえも「操り人形の恋」として疑うメタ認知。呪詛と祝福の二虫一体はフタゴムシのように無理やり引き離したら死んでしまう。それでも、この恋心は「恋する寄生虫」なんかにもたらされものではない純粋なものだと証明するために宿主にできること。その結末は、痛い。