太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ズンク・アーレンス『TAKE NOTES!』感想〜AIツールに魔改造されてしまったツェッテルカステンのそもそも論

TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる

ツェッテルカステンのそもそも論

58 冊の本と、数百本の論文という、大量の執筆をしたニクラス・ルーマンという社会学者がいます。彼の著作のクオリティはずばぬけていて、専門分野以外でも古典的名著になっています。
どうしてそんなことができたのか?
その答えは、彼が編み出したツェッテルカステンというメモ術にあります。
ツェッテルカステンのすばらしいところは、自分オリジナルの考えが自然とたまっていくところ。「自分の言葉でメモをとる」など、いくつかのコツがありますが、そのおかげで、メモが独自の理論になっていくのです。それらは「ちょっとしたひらめき」などではなく、大きなアイデアになるので、本数冊分なども書こうと思えばラクラク書けるほどになります。

巷で流行りの Obsidian x Cursor に付随して挙げられることの多いツェッテルカステン(Zettelkasten)。『大塚あみ『#100日チャレンジ 毎日連続100本アプリを作ったら人生が変わった』感想〜 生成AIに「育てられた」第1世代のバイブスアーカイブ - 太陽がまぶしかったから』で読んだこともあって、名前は聞いたことがあるものの、「ノート同士をリンクする」「タグをつけてネットワーク化する」といった低解像度な理解しかしてこなかったという経緯がある。

マニュアルを読まずに触って、なんとなく理解した気になってしまうのは自分の悪い癖だ。そもそツェッテルカステンは単なるメモ術ではなく、思考のインフラを構築するための方法論である。ニクラス・ルーマンが生涯にわたって実践し続けたメモシステムについて、改めて深く理解する必要があると感じて本書を読むことにした。

メモは自分の言葉で書く必要がある

ツェッテルカステン自体の説明は本書の中で詳しくされているが、まず押さえておくべきは「メモは思考のインフラである」という点だ。著者は、ニクラス・ルーマンのメモ術を単なる情報の集積ではなく、思考を育てるための“土壌”として位置付けている。

そして、メモは必ず「自分の言葉」で書かなければならないと主張している。引用や抜き書きは知識の写し絵にすぎず、文脈と理解を伴った言語化によって初めて“自分の知”になる体験となる。ルーマン自身も、メモは「自分の言葉」で書くことを徹底していた。

この時点で、他人の著作や Web 記事をコピーして AI に要約させれば良いという考え方は根本的に誤っていることに気づく。AI が生成したテキストや他人のメモは、あくまで“情報”であり、自分の思考を育てるための“土壌”にはならない。自分自身の言葉で書くことが、思考を深める第一歩となる。

3種のメモ ── 走り書き、文献、永久保存

ツェッテルカステンではメモを以下の 3 つのタイプに分けて管理することを提案している。そもそもツェッテルはカードを意味し、カステンは箱を意味する。つまり、メモをカードとして書き、箱に収めていくイメージだ。

  • 走り書きメモ(Fleeting Notes):思いついたことをとにかく書き留める、スピード重視のメモ。アイデアの断片、観察、疑問など。形式にこだわらず、感情も含めて書く。
  • 文献メモ(Literature Notes):読書や学習から得た知識を、自分の言葉で要約したもの。原文の引用にとどまらず、自分の解釈や関連付けを含める。
  • 永久保存メモ(Permanent Notes):上記のメモから抽出されたエッセンスを、自分の知識資産として「自分の言葉で」書き直したもの。他のメモとのリンクを意識し、再利用可能な形式で記述する。

このプロセスを経ることで、メモは単なる記録ではなく、自分だけの“土壌”として育ていくことができる。走り書きの断片コードがステージングされ、プルリクエストやコードレビューを経て本番環境にデプロイすべき削ぎ落とされたコードに整っていくイメージだ。

僕自身としては、ChatGPT との対話や X への投稿が走り書きメモにあたり、Kindle のハイライトが文献メモの元ネタ。そして、Obsidian にまとめたり、ブログに公開されたそれなりに整えた文章が永久保存メモにあたる。そういう意味では、ツェッテルカステンの目指すものは自身のスタイルとの親和性が意外に高いと感じた。

要は、捨てる勇気がないんでしょ

本書では、Obsidian などの現代の高機能ノートアプリにも触れられているが「まずツールに飛びつくな」と繰り返し警告する。思考が先、テクノロジーは後。カスタマイズが楽しくなり、テンプレートやタグ管理に没頭してしまうと、気がつけば「メモを取る」より「環境を整える」ことが目的化してしまう。

魔改造の罠に陥らないためには、自分がどんな問いに対してメモを取りたいのか、どのような形式で残すと後から思考が再燃するのかを意識的に設計し、続けられる程度のシンプルさに止める必要がある。僕自身もこれまでに Evernote や Notion の魔改造を破綻させてきた経験があり、ツールはシンプルに使うべきだと切に感じている。

ところで、本書は前半のソリッドな説明な主張に反して、後半になるにつれてファインマンヘミングウェイなどの自己啓発的なクリシェを交えた我田引水的な説明が多くなり、冗長に感じる部分も増えていく。この現象は各種文献から印象に残った部分を残していくツェッテルカステンの悪いところが出てしまっている気もする。AI に生成されてしまう仕草だ。

本書にも出てくる「キル・ユア・ダーリン(Kill Your Darlings)」というジジェクも好んで使ったこのフレーズは、愛着のある一節をあえて削る勇気を促すものだが、著者には削る勇気がなかったのかもしれない。ハラリのようにクリシェを頻発させながらもスリリングな文章を展開し続けるのは難しい。AI があとから拾ってくれるかもしれないからこそ、全部を成果物に入れ込まなくても良いという割り切りが必要になる。

メモは記録ではなく価値を生み出すための土壌

著者は「メモは日々取っておくだけで、いずれアウトラインが勝手に見えてくる」と語る。これがルーマンの生涯 70 冊の著作の秘密であり、「白紙から書かない」ための戦略である。蓄積し、つなげ、寝かせる。それが思考の土壌整備であり、ツェッテルカステンというシステムの本質なのだろう。

AI がメモを自動で整理し、関連付け、必要なときに呼び出し、膨大な文章を生成してくれるツールは整い始めてきている。だが、最終的に「何を残すか」「何を捨てるか」「どう表現するか」を決めるのは人間の営みだ。分からない言葉を分からないまま喋る LLM ゾンビになっても仕方がないし、尺埋めの冗長なクリシェなど無限に生成できる時代だ。自分の言葉で問いを仕込み、リンクを再結合し、新しい概念を提案する。それが、自身の思考を深める唯一の方法なのかもしれない。