太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』〜この恋愛に【あたし】と【あなた】はどこにいる?

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

いまになって「モテ」本を読むことについて

 Skype読書会にあわせて『すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)』を読みました。いまだに独身。それなりの過程はあれど「いま/ここ」には何も残っていません。そろそろ夫婦関係の秘訣や子育て日記を書いていても良い年代なのにも関わらず、未だに「モテ」についての話をしている事がひとつの隘路となっています。

 本書はタイトルこそ『すべてはモテるためである』となっていますが、実際に語られるのは「なぜモテたいのか?」「どういうふうにモテたいのか?」という理想像の掘り下げであり、その理想像と現実とのギャップを埋めるための方法論です。

一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。

  • ビジネス要求 < 現状のケイパビリティ + 課題(≒ソリューション)
  • ビジネス要求 - 現状のケイパビリティ < 課題(≒ソリューション)

 これはコンサルティングの基本的な考え方でもあり、相手にとっての欲望のすり合わせをサボったままで展開される一般論をいくら並べたところで、どこにも行けません。僕らは、もっと個人的な話をしているのです。

「だいたいさ、そういうマニュアルって、女性一般の攻略法でしょ。せいぜいB型はこう攻めろとか、お嬢様タイプはこうでギャルはこうとあ、そういう分類でしょ。【あたし】はどこにいるのよ? あたしを口説きたいんでしょ? しかも口説きかたも本に書いてある通りのテクニックを使うんだったら、そこには【あなた】すら、いないじゃない。恋愛とかセックスとかって、一人ひとりやりかたが微妙にちがってて、それが楽しいのに」

 これは、本書を書く側にだって注がれる視線です。【あたし】や【あなた】がいない状態で、(しばしば)上から目線で展開されていく持論はどこまでも退屈で、どこまでもキモチワルいものです。本書内では「問いかけ」が多用されていますが、それは読者としての当事者を高める効果と、筆者からの気遣いを感じる効果の両面があります。この本自体がパフォーマティブなコミュニケーションになっているわけですね。

【あたし】と【あなた】はどこにいる?

 モテない理由には、「かんちがいしているバカ」や「臆病」など、いくつかの経路はあれど、最終的には「キモチワルい」という単語に集約されていきます。とりあえず100人に声を掛けたり系の訓練が提唱されることもありますが、「かんじわるいバカ」という「キモチワルい」状態から抜け出せる見込みがないなら誤った処方箋です。

 僕の場合は普段は塩対応なのに、勝手に盛り上がって「特別」な事をしはじめがちで、「じつは臆病なだけ」という指摘に殺されました。これは本当にそうで、「同じ温度の風呂に入る」ことが大切だと未だに反省したりもします。本書内では「同じ土俵に乗る」と表現されているのですが、そういった事は【あなた】を正面から見ていない事から発生しているのですね。

 ここで問いかけられているのも、「この恋愛に【あたし】と【あなた】はどこにいる?」ということです。もちろん、少女漫画をなぞるような恋愛をしたり、サブカルクソ野郎ごっこをするのも楽しいです。だけど、それは互いが互いを都合のよいコンテンツ化(モノ化)をしているだけで、眼前の人間を疎外し合っています。僕自身も直接的な表現は避けているとはいえ、他者との個人的な体験を第三者に向けたコンテンツの糧にしているわけで、その事に関する罪悪感を感じることもあります。

【あなた】から見た【あたし】の問題

 この本ではモテない理由について、色々な分類と処方箋が出されるわけですが、「オレはその分類じゃない」と半笑いで読み飛ばしていくのも容易いことです。致命的にモテなかったわけじゃないし、仕事の評価も、楽しい趣味もそこそこあって、謙虚に振る舞っているつもり……でも自分から好きになった人とはうまくいかないんでしょう?

 誰かがあなたの【痛い部分】に触ろうとすると、あなたは、ものすごい速さで逃げる。言葉としては理解しながら、そのことを【自分の問題として】受け止められない。

(中略)

 あなたのその周到な(でもバレてんだから、実はマヌケな)ガンコさと、その天下一品のバカを治すには。
 「バカなのに臆病」なんですから、臆病なのにバカやってる人の逆(ていうか同じ)で、まずあなたのその臆病さの原因は、自分が「かなり頭の悪いせいである」ということを認めましょう。

 はい死んだ。そんなこんなで、この本を読んでいると執拗に殺しにきます。敢えて逃げ道を作っておいて、そこに逃げると余計につらくなるコマンド・サンボのサブミッションのようです。【あたし】へのひとりよがりな自己分析や当事者性を疎外したまま行われる勝手な納得なんて、眼前の事実の前では無力であり、【あなた】の視線から逃げまわっていてはどこにもいけないという事です。

【あたし】を保つための居場所作り

 その一方で、他者からの視線にたいして臆病になりすぎないためにも「一人っきりでいても淋しくない場所」を持てと主張されます。それがあるから失敗に対して臆病になりすぎないし、まっとうな謙虚さにも繋がります。

 自分の心の中に「温泉」があれば、大抵のことは「まぁ、しゃーない」と構えていられるものです。それが強すぎて「いまさら振り回されるのも面倒だしなー」ってなってしまうのも玉に瑕ですが、自身の欲望を掘り下げた結果としての選択なら尊重すべきだとも思います。

 これは「人格労働」と「感情労働」の違いだと僕は考えていて、傍目には同じことをしているように見えても維持するために使用される「人為的なエネルギー投下の有無」によって持続可能性や平均的な品質が全く異なるという事を経験しているのだけど、まさに「温泉」と「風呂」の違いでもある。

 大した魅力があるわけでもない自分が「自然に暖かくなるぬるま湯のような恋愛」なんてものを築くのはむしろ「高望み」なのかもしれませんが、本当に欲しかったのは病めるときも健やかなる時も分かち合える「親友」や「家族」なのかもなーなんて思ったりもします。ひとりでも良いけど、ふたりならもっと楽しい場所に一緒にいられる事です。

子供のままで大人になってしまった僕ら

 第4章までは著者の二村ヒトシがまだ若く、まだモテていない時分に書かれた内容なのですが、第5章以降はその15年後に加筆されるという『白石晃士監督『オカルト』感想~「渋谷駅前交差点自爆テロ事件」の深層を淡々と抉りだすモキュメンタリー - 太陽がまぶしかったから』でいうところの「バイオグレープジュース」なみの超展開があります。

 そこで語られるのが、【モテているのに、心が苦しい】という状態です。相手の心がなんとなく分かるようになって、モテるようになったからこそ、もっと本質的な【あなた】が出てきてこう言います。

「私を抱きしめて。支配して。でも同時に、私を自由にして。私をコントロールしないで」

 それに加えて僕の場合は歳相応にアラサーの人々と付き合うようになって、当事者同士のことよりも金銭や子供についての視線も感じるようになりました。まだ恋愛感情だって十分に味わっていないうちに【あなた】の人生設計の構成部品に勝手に組み込まれていくような感覚を抱く事さえあるのです。もちろん僕自身の被害妄想だって大きいのでしょうけれど、そこにいる【あたし】は代替可能なネジに過ぎません。だましたなメーテル

 大人だということは
「もうそんなに長い時間は残っていないんだから
 なるべく他人を幸せにしよう」とかんがえることだ。

 それ以来、僕の中の風呂はすっかりと冷めてしまい、見送り三振やこれ見よがしの大振りを続けてきたわけですが、「ちゃんと愛されたい」という執着が残っているからこそ、「ちゃんと愛する事」も出来るではないかという話にも繋がります。僕自身も「褒める事をケチるな」とよく言うのですが、そんな事を明言している時点で十分に内面化できていない事も自覚しています。自分自身は変わらないままで、相手にこちらの土俵に乗ってきて欲しいと押し付けていたのは僕の方です。

 林真理子も「やってしまったことの後悔は日々小さくなるが、 やらなかったことの後悔は日々大きくなる」と言ってます。ネオテニーのままちっぽけなプライドを貯めこみ続けても、利子で増えるのは後悔だけです。だからまぁ「命短し、愛せよおっさん」という事でしょうか。まずは恋愛の流通総量を増やしましょうよ。