カンガルー日和
「ねぇ、年越しに読む本は何がいい?」 そんな台詞から始まった会話は「未年にちなんで羊が出てくる作品が尊い」という結論になった。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『羊をめぐる冒険』を想起したが、同じ羊男ならばと『カンガルー日和 (講談社文庫)』を薦めた。やれやれ、「まだ」と「もう」の使い分けには、この作品が書かれた34年後だって苦労させられる。
本書は『トレフル』という伊勢丹主催のサークル会員用の雑誌で毎月連載されていた18篇のショート・ストーリーからなる。「あとがき」で本人も書いている通り、あまり人目に触れる想定していなかったからか、良い意味で力が抜けていたり、「試作品」のような作品が多い。また本文中の挿絵にも講談社から出版される長編作品の表紙画を担当してきた佐々木マキのイラストが使われており、味わい深い。
カケラ作りとカケラ探し
カンガルーが穴を掘ったり、北海道の緬羊や井戸の話があったりと長編作品のモチーフとなる要素要素が散りばめられているし、「やれやれ」もこの頃から頻出している。唯一の連作である『図書館奇譚』は「羊男」が出てくる少年の冒険活劇であるし、図書館の少女は『世界の終わり』のモチーフである。「奇譚」という言葉さえ『東京奇譚集 (新潮文庫)』に繋がっている。
村上春樹は、このような短編を大量に書いていくなかで、「概念のパーツ」を作り上げる手間を惜しまなかったからこそ、濃密な長編を書く事ができたのだ、と僕は勝手に思っている。空想で消費された「1971年のスパゲティー」は、まだ「パスタ」を茹でる前の話である。
100パーセントの女の子に出会うことについて
『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』はのちに「100パーセントの恋愛小説」として『ノルウェイの森 上 (講談社文庫)』のキャッチコピーになったり、『1Q84 BOOK 1』のモチーフになったりもしたのだけど、この短編自体が僕にとっては100パーセントであった。
「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕たち二人が本当に100パーセントの恋人同士だったとしたら、いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない。そしてこの次にめぐり会った時に、やはりお互いが100パーセントだったなら、そこですぐに結婚しよう。いいかい?」
しかし、紆余曲折あった二人は互いに記憶を失って、言葉を交わすことなくすれ違って人混みの雑踏に消えてしまう……なんて悲しい話を切り出してみようかと想像するぐらいに、すれ違う女の子に「ぴったりとしたなにか」を感じて、どうしようもなく惹かれてしまう。
「この話は僕が満員の山手線の車中である広告ポスターを見かけたことが原形になっている。そのポスター(何の商品の広告だったのかどうしても思いだせない)のモデルになっていた女の子に、僕は理不尽なくらい激しく惹かれた。胸がいっぱいになって、胸が震えた。それは今思いおこしても本当に運命的な出会いだったのだ」 [asin:4061879359:detail]
遡って作られる「100%だったかもしれない」可能性
もちろん、そんな事は主観的な幻想なのだけど、「伝説が遡って作られる」のは弁慶であれ酒呑童子であれ同じ事である。本質的には代替可能だけど、代替可能であることに気付かせない装置がカチリと嵌ってしまう。
そんな時に、すべての事象を「なかった事にしない」と考えるのではなくて、「なかった事に出来る」からこそ、結果として「ありえた世界」への想像が可能となる。
<羊男さんには羊男さんの世界があるの。私には私の世界があるの。あなたにはあなたの世界がある。そうでしょ?>
「そうだね」と僕は言った。
<だから羊男さんの世界で私が存在しないからって、私がまるで存在しないって事にはならいでしょ?>
「うん」と僕はいった。「つまり、そんないろんな世界がみんなここでいっしょくたになっているってことなんだね。そして重なりあっていない部分もある」
「僕たちは記憶をなくして不可逆性の楔がなくなってしまった」という想像を行うことで、はじめて「不可逆の楔があったかもしれない可能性」が捏造できるのだ。100パーセントの出会いに失敗した僕らは、5パーセントの世界に遁走して、貧血性の火花をともなった、なかば醒めた昏睡状態に委ねられる。あの夜の僕は、そんな話を切り出してみるべきだったのかもしれない。