加齢によって没入できないジャンルが増えた
漫画やアニメやライトノベルを摂取しようとなると主人公が少年ないし青年のことが多いが、中年を迎えた自分にはしんどくなってきている。一般的な文系作品であれば別に主人公に感情移入できなくても良いのだけど、漫画やアニメやライトノベルにはどうしたって心をときめかせたい欲求がある。
過去の自分はいわゆる「おねショタ」が好きであった。おねショタとは、年上のお姉さんとショタによるカップリングを示す言葉であり、幼いが故の粗相を寛大な気持ちで受け入れてくれたり、逆に大人な行動にドキドキしたり、お姉さんに触発されて決める時は決めなきゃと背伸びする構造。なんかちいさくてかわいいやつになりたい。
SNSを騒がせている僕ヤバも主人公とヒロインが同年代とはいえ、女子の成熟のが早い中学2年生のギャップを描いている。僕自身は『天地無用!』や『新世紀エヴァンゲリオン』などから目覚めたのだけど、そろそろ自分が何も知らないショタとして心に芽生えてしまったヤバイやつにオロオロする感覚に没入していくのがしんどい。加齢に伴って没入できないジャンルが増えてしまう中年の危機だ。
「女上司」というエシカルでサスティナブルなソリューション
アダルトビデオにおいても人妻モノや熟女モノが売れるようになったと言われているが、それはユーザー層の加齢による物が大きいのだろう。だけども人妻はエシカル(倫理的)でないし、熟女は自分のが年上になってしまうためサスティナブル(持続的)でない。
そんななか、「女上司」という単語がFANZA内でも増えていることに気がついた。パワーハラスメントは許されることではないが、僕自身が望んでパワハラされるのはエシカルであるし、現場に派遣されたらリーダーが年下の女性なんてことは今時珍しくもない男女雇用機会均等法。年齢ではなく階級の問題にすることで自身の加齢がむしろにプラスになるサスティナブル。
つまり、うだつの上がらない僕を指導してくれる年下の独身女上司はエシカルでサスティナブルな存在であると言えよう。年を重ねても気が利かなくて周りが見えなくなってしまう自分よりも相手のが人間的な成熟が上なのだから、慣れてないが故の粗相を寛大な気持ちで受け入れてくれたり、逆に大胆な行動にドキドキしたり、決める時は決めなきゃと背伸びしてジョエル・ロブションに誘う構造が維持できる。身体は大人、頭脳は子供の逆コナンである。
ミサトさんはお姉さんから女上司に変わった
エヴァンゲリオンも元々はシンジとミサトのおねショタとして見ていた側面が強いのだけれども、今となってはシンジくんに没入しずらい。それでもミサトさんこそが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のヒロインだと思ってしまうのは、女上司モノとしての見え方ができるようになったからだ。
ニアサードインパクトから14年経って親であり、職業人となったトウジやヒカリは人間の成長を象徴しており、なんの成長をしていないシンジと僕自身は『劇画オバQ』である。「そうか…正ちゃんに子どもがね…ということは…正ちゃんはもう子供じゃないってことだな……な… 」。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開日が2007年9月1日なので約14年。奇しくもリアリティの世界でも14年間が過ぎていた。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で人類補完計画が完遂されようとする際にA.T.フィールドを中和されたい(あなたとひとつになりたい)存在としてミサトさんの幻影が現れた日向マコトこそが自分が没入すべきキャラクターなのだろうと悟った。危機的な状況の中、さりげなくミサトに「いいですよ、あなたと一緒なら」なんてまさに言いたいことだ。
それに比べて青葉シゲルの幻影がレイだったのは執着がなかったのか、ロリコンだったのか気になる。メスガキも自分の歳が関係なくなるという点においてサスティナブルだが決してエシカルではないだろう。
結句、おねショタに没入できないミドルエイジクライシスをエシカルでサスティナブルな女上司モノで癒すのがSDGsを見据えた性癖として覇権を握るのではないかと考えている。出張先の打ち上げで酔い潰れて少し弱音を見せてくれた女上司となぜか相部屋になって欲しい。