太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

久住昌之『野武士、西へ 二年間の散歩』〜孤独の東海道中膝栗毛

野武士、西へ 二年間の散歩

月一散歩で大阪まで

 『野武士のグルメ 増量新装版』から勝手に続いていく野武士シリーズ。もともと「野武士」というのは『孤独のグルメ (扶桑社文庫)』の文庫版にのみ収録されてる巻末エッセイで、店に入ったら野武士のように一言「酒!」と言えば万事が済むような無骨さが理想という意味合いで使われていた。実際にはウジウジ考えちゃう事の対比として。

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 そんな野武士を目指して今回挑戦するのは、東京の神保町から大阪まで「散歩」することなのだけど、東京から大阪までは電車で550kmもあるので一度に歩ききるのは難しい。そこで、1日のうちにぶらぶらと歩いて、辿り着いた場所で泊まっても良いし、電車で帰って別の日にそこからスタートしても良いというルールになっている。1日目は横浜まで散歩して電車で帰る、その1週間後に横浜までは電車で行って藤沢まで歩くといった塩梅である。さしずめ現代に蘇った「孤独の東海道中膝栗毛」であろう。

二年間の長丁場

 そんな感じで2009年8月に東京の神保町をスタートして、2011年8月に大阪城に着くという二年間の長丁場。多忙な中で時間を見つけて1日歩き続けるのだけど、先に進むのに従って「ワープ」の時間が増えて正味の散歩として確保できる時間が減っていってしまうので、泊まりが前提になって余計に難しくなるみたいな事情もあったと思われる。実際1ヶ月以上行けないような時期もあったようだ。

 それだけの長丁場なので、当初はウクレレをリュックに担いで「ちょんまげ」や「刀」に見立てていたのが徐々にどうでも良くなっていくみたいなのがリアルではある。震災を挟んで必然的にそれにひきづられる時期もある。「2年間しか」なのか、「2年間も」なのかは分からないけれど人も街も変わっていくには十分な時間だ。

スマートフォンに入ったナビの存在

 当初はiPhoneの中に入っているナビを使わないと決めていたので、とにかく道に迷ったり、逆走したりが定番になっていたのだけど、後半になると形骸化してナビを使うシーンも出てきて比較的(あくまで比較的だけど)、珍道中感が減ってしまったのが残念ではあった。

 僕自身も東海道を旅行することが多くて、例えば琵琶湖から京都までを歩いたりもした。その時もiPhoneのナビは必須になっていたのだけど、今思うと少し味気なかったかもしれないと思う。旅において「安全な最短距離」を目指すのはなんだか本末転倒な気がするのだ。東浩紀の『[asin:B00M17J17S:title]』にチェルノブイリへの取材旅行について以下の記述がある。

 仮想現実での取材の場合、そこで「よし終わった」とブラウザを閉じれば、すぐに日常に戻ることができる。そうなるとそこで思考が止まってしまう。

 けれど、現実ではそんなに簡単にはキエフから日本に戻れない。だから移動時間のあいだにいろいろと考えます。そしてその空いた時間にこそ、チェルノブイリの情報が心に染み、新しい言葉で検索しようという欲望が芽生えてきます。
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 その上で、孤独に知らない道を歩く焦りや不安のまじった非日常感によって思考が活性化して、色々な事が思い起こされては染み込んでいくのだろうと思う。ナビは「初めての道」を日常化して「いつもの道」にしてしまう。それはすごく便利なのだけど、なんだか大切な機会損失をしている気もする。

予定を決めない一人旅のリアル

 本を読み進めると予定を決めない一人旅あるあるに懐かしくもなった。便意問題とか、名物があるのにラーメンで済まして後悔するとか、店が早い時間に全部閉まってるとか。僕も事前に全く調べないで行く旅行が好きで、やっぱり「とほほ」もあってこそだとは思う。効率厨になってはいけない。誰かと一緒ならともかく。

 特に久住さんはラーメン好きなのか頻繁にラーメンを食べる場面がある。周りの店の一切が閉まって腹を空かせてるなか、ホテルのバーで「インスタントですが」と出されるハムとワカメの入ったラーメンの美味そうなこと。『南極料理人 [DVD]』の中にもインスタントラーメンのシーンがあって、これも最高に美味しそうだったのだけど、インスタントラーメンには魔力がある。

始まりと終わりのバランス地点

 歩き始めの頃は、早く東京圏から出たくて、焦っていた。東京からの引力に背中を引っ張られ、それを振り切るように足を進めたので、疲れた。箱根を越えたあたりから、そういう気持ちは消えた。

(中略)

 この感じは、年齢にも似ている。子供の頃は、早く大きくなりたいと思い、実際、どんどん大きくなるのをうれしい思う。母親の子宮の引力から、早く遠くへ行きたいと思う。

 そして少年期、青年期、中年期とあって、五十を過ぎると、墓場からの引力圏内に入ってくる。そうすると人は、若くありたいと願いだす。いま、ボクは確実に向こうから引っ張られていて、ボクはそれに抗うように生きている。
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 両極からの引力のバランスが動いて現在がある。始まりがあれば終わりがあるけど、僕らが自分自身を認知できる限りはいつだって過程である。だんだんと「終わり」から引力が強くなっていくと感じるからこそ、非効率なダンスを踊りたい。そもそも交通機関が発達した現代において長距離を歩く意味なんて殆んどないのだけど、だからこそ個人的な体験としての価値はあるのだ。僕も今度はナビをなるべく使わないで歩きたいな。

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