太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

谷崎潤一郎『痴人の愛』感想〜馬乗りされたい僕と応じるたびに変わる君

痴人の愛(新潮文庫)

婚活小説としての痴人の愛

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだ。馴染み深い表紙の新潮文庫版ではなくて中公文庫版。Kindleで買うと新潮文庫版が490円で、中公文庫版が350円だったという即物的な理由なのだけど、そもそも電子書籍で価格差が発生することがあるのだと思った。栞紐がない新潮文庫には今ひとつ肩入れできない。学生時代に途中までは読んだような気がするのだけど、実は最後まで読んだのは今回が初めてだった……と思う。

 話のスジとしては、勤勉で中年に入りかけた譲治(ジョージ)がカフェーで給仕をしている奈緒美(ナオミ)の佇まいや名前にハイカラ性を見出して引取り、「友達のような夫婦」として甘やかしつつも淑女としての教育をしながら「お伽話の家」の中で怠惰に暮らす。このあたりは、ちょっとした婚活小説になっている。

 しばらく経ってナオミも外出するようになったことからダンスホール等で知り合った男子達と懇ろになってしまい、様々な嘘や不貞が発覚して「出てけ!」となる。

 それでもナオミがいないと生活に張り合いがなくなってしまい自らを「肉体の奴隷」としてナオミに差し出す。初手から結婚という形がなければ、サークルクラッシュ現象としては馴染み深いものではあるのだけど、狂おしい心情の描写ディテールが素晴らしい。

オタサーの姫としてのナオミ

 物語の冒頭ではジョージが数えで28歳、ナオミが15歳。実は最近流行りの「倍以上男子」ではない。ただし、ラストで36歳、ナオミが22歳と書いてあるため誕生日の具合で14歳差の時期があり、かつ数え年なので実年齢としては28歳と14歳の時分があったと思われる。

 いや「倍以上男子」だからどういうこともないのだけど、一部の登場人物が徐々にヲタサーの姫にアイロニカルな没入をしていく側面を含めて、むしろ現代に通ずる場面が多くあったという印象が強い。この作品が大正時代に書かれているのも不思議な気分だった。このような情欲はある種のコモンセンスとしてインストールされているのだろう。

 ナオミの奔放さが作品の特徴のひとつになっているだけど、「お伽話の家」で「小鳥を飼うような心持」になっていたり、着せ替え人形にしたりしていて、ジョージもなかなかの変態性を持っている。そもそもが社交界で可愛い妻を自慢したいという「装飾品としての妻」という動機が自身の大半を占めているわけで、決して「純な男」が云々という話ではない。

 「ベビさん」「パパさん」と呼び合ってママゴトをすることが自己目的化しているのだけれど、それはそれで愛のカタチなのかもしれない。

3回ある「馬乗り」の場面

 ジョージが馬になってナオミを背中に乗せて歩く「馬乗り」の場面が印象的。映画のジャケット写真になっているぐらいだ。作中で馬乗りされるのは、友達のように暮らし始めた時期に擬似親子として、やや暗雲が立ち込めた時期に恋人として、そして自らを「肉体の奴隷」としてナオミに差し出す時の3回。

 主従関係が逆転していく様を馬乗り仕方によって描き出すのだのだけど、ラストの馬乗りにはジョージ自らが「乗ってくれ」と懇願している。そこに至らされるナオミの神算鬼謀がすごいのか、ジョージが求めたナオミを彼女が演じているのかは相補完的である。真に狡猾で知恵者なら不貞の露見もしないようにするわけで「狡猾だが迂闊」という萌え記号を体現しているのにすぎない。

 僕も「狡猾だが迂闊」ぐらいの感じに振り回されるのが好きだった(聞いてない)。それでも、ナオミが馬乗りに応じてくれる一貫性にこそ愛が宿っている。

クレオパトラがどんなに悧巧な女だったとしたところでまさかシーザーやアントニーより知恵があったとは考えられない。たとい英雄でなくっても、その女に真心があるか、彼女の言葉が嘘かほんとぐらいなことは、用心すれば洞察出来る筈である。にも拘わらず、現に自分の身を亡ぼすのが分かっていながら欺されてしまうと云うのは、餘りと云えば腑甲斐ないことだ、事実その通りだったとすると、英雄なんて何もそれほど偉い者ではないのかもしれない、私はひさかにそう思って、マーク・アントニーが「古今無類の物笑いの種」であり、「このくらい歴史の上に馬鹿を曝した人間はない」という教師の批評をそのまゝ肯定したものでした。

 そんな事を書いているジョージも陥落するわけで、いったい、誰もそれほど偉い者ではないのだろう。むしろ積極的に「分かっている範囲で、安全に痛く騙される」のを望んでしまう。でも「分かっている範囲」や「それはアカン」という仕切りは個々に異なるわけで、そのまま「分かってる範囲すらアカン」状態になってしまう可能性を孕んでもいる。

誰も束縛しない世界

 そもそも何が本当に「アカン」のかは分からない。例えば自分が若い頃には浮気する/されるのは絶対に許せなかったけど、今は別にどうでも良い感覚もある。基本的に面倒くさがりの自分がするかはさておいて、そんなに特定個人への執着がない……といえば嘘になるのだけど、少なくとも互いに互いの人生を背負うような生き方は難しくて、そこへのコミットメントやエンゲージメントはきっと最後までできやしないのだから、束縛したいと思わない。思ってはいけない。

 しかし、だからこそナオミに馬乗りにされ、高圧的でありながらも自身の必要性を見出してもらえるというのはありがたいことなのかもしれないとも思う。矢鱈と必要とされたくないという思いと、それを乗り越えてでも必要とされたいという思いは同居する。可愛い女子からならね。当事者としての想いの強さなんて外形的には判断できないからこそ、その動機が不純であっても外形的に満たしていれば十分なのである。

 「ほんとう」なんて個々に思い込めば良いもので、僕は僕が物理現象と認知したものだけを信じる。痴人と罵らようとも信じる。例え『1984年』のように「2+2」が「5」に見えてしまったとしてもだ。君は痴人と嗤うかもしれないけれど。いったいこの世に痴人じゃないニンゲンなんているのかね?

 当事者間においてのトロフィーワイフや理想化自己対象の永続性については勝手に気になってしまうところではある。ナオミがそのままの生活で50歳になったとして、それでも残るものはなんなのだろう。家族愛とか仲間意識に転換してく部分についてお伽話の家の幻想強度は幾ばくなのかと思いつつも、信じる者は救われることを信じたい。僕は「概念上の奴隷」でありながらも、「肉体の奴隷」としても馬乗りにされることを一方では望んでいるのだろう。