Love Love Love You I Love You
舞城王太郎を語るのは難しい。京極夏彦、清涼院流水、森博嗣、浦賀和宏、高田崇史、西尾維新、佐藤友哉、etc、etc。講談社発刊の文芸雑誌『メフィスト』に綺羅星のごとく登場してきたスター作家達をみると学生時代を思い出して妙な気恥ずかしさを覚える。なかでも舞城王太郎に感じていた分不相応は嫉妬のような感情はなんだったのか。
Love Love Love You I Love You
愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。「恋愛」と「小説」をめぐる恋愛小説。
この恥ずかしいタイトル、文体、圧倒的な肯定。他は読んでいたのにこの作品だけは食わず嫌いで避けてきた。今となっては、このタイトル自体が『世界の中心で、愛をさけぶ』や『1リットルの涙』や携帯小説文化へのカウンターだったのだろうとわかるけれど、つまりは「女の子が死ぬ話」の系譜であることには変わりがない。
起こってしまったことを「後から治す」ための物語
この小説は3つの独立した愛に関する寓話があり、それぞれの寓話の始まりと終わりに小説家の治と不治の病で死んだ柿緒との思い出や兄弟との会話が差し込まれるサンドイッチのような構造になっている。ASMAという虫に侵された智依子、夢荒らしに連れ去られた佐々木妙子、肋骨融合をして神と戦うニオモ。それぞれの寓話で生と死と愛と祈りが描かれる。
これらの寓話を「小説家の主人公」が書いたというメタフィクショナル構造と解釈することもできるが、柿緒の世界で明示される寓話と実際に収録されている寓話には乖離があるし、「治」と「不治」なんてのもフィクショナルな必然を意図しているように思える。「治」や「柿緒」という名前が明示されない序文内に以下の文がある。
祈りも願いも希望も、すべてこれから起こってほしいと思うことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。
つまりメタメタフィクショナルな世界において柿緒に相当する誰かに一度も「死なないでくれ」と言えなかった後悔を 夏への扉のようなタイムマシンや五次元空間のない現実世界で「後から治す」ための試みとして、柿緒の世界も描かれていると解釈することもできる。既に起こってしまったことを言葉で後から治すのは、どこまでいっても自己療養の試みであり、そこに他者はいない。
本当のことを隠すための物語を自己療養の試みとして書くのは如何にも村上春樹的である。
祈りは過去を遡って治す試み
その一方で「無駄と知りながらも言うべき言葉は一つの祈りだ」とし、無駄だと分かっているのに考え続け、言葉にせずにはいられない内発的な感情こそが祈りであり、愛であると定義づける。
僕は柿緒のあの日のことをよく考える。で、ふと僕は、柿緒があのときあんなふうにして出かけて内緒のままにしているのは、まさしく僕にそのことを考えさせるためであって、柿緒が逝ってからも僕に柿緒のことを考えさせるためじゃないかなと思う。それを考えることが柿緒を愛することと同じなら、僕は柿緒の思惑どおりに柿緒を好きなままで忘れられずに何度も何度も繰り返して愛しているのかもしれない。
そして、その内発的な感情すらも「柿緒の思惑」によってもたらされたと後から動機を空想することで、危うい他者性を獲得し直す。「記憶もまた、時間を経てば曖昧になり、空想と変わらなくなる。物語になる。」と自覚しながらも、起こってしまった過去を後から治すための物語を紡ぎつづけずにはいられない。祈りつづけずにはいられない。好き好き大好き超愛してる。超愛しすぎるというのはそういうことなのだ。