太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』感想〜怠惰なブロガー的コミュニケーションの隘路とラブファントム

ナイルパーチの女子会 (文春文庫)

ナイルパーチの女子会

商社で働く志村栄利子は愛読していた主婦ブロガーの丸尾翔子と出会い意気投合。だが他人との距離感をうまくつかめない彼女をやがて翔子は拒否。執着する栄利子は悩みを相談した同僚の男と寝たことが婚約者の派遣女子・高杉真織にばれ、とんでもない約束をさせられてしまう。一方、翔子も実家に問題を抱え―。友情とは何かを描いた問題作。第28回山本周五郎賞&第3回高校生直木賞を受賞!

 最近ドラマが放映されていたとのこと。柚木麻子と言えば『ランチのあっこちゃん』や『あまからカルテット』など教訓と良い話とほっこりが同居する軽い作品が多い印象だったので不穏なあらすじに驚いた事を覚えている。

 アラサーを迎えた女子にまつわる人間関係や家族関係を描いた作品ではあるが、ある種のサイコパスサスペンスでもあり、それでいて登場人物をモンスターとして切断処理できない共感性と悲哀がある。壮絶な「女子会」を俯瞰で眺めたり、影響を与えていく弱い男達もモンスターを生み出す舞台装置である。

放流された水域では外来種として在来生物群集に大きな影響を与えている。特にヴィクトリア湖の事例は深刻であり、ナイルパーチの放流が原因で固有種のシクリッドなど多数の淡水魚が激減・絶滅し、それらが食料としていた微細藻類が異常繁殖しアオコが発生する等、生態系に深刻な影響が出ており、IUCNの「世界の侵略的外来種ワースト100」に選定されている。日本にも輸入され、環境省による要注意外来生物にリストアップされている。

 ナイルパーチは大型で味に癖のない白身魚として有用な水産資源となっているのだけど、放流された水域を壊してしまうため社会問題となっている。本書にも出てくる『ダーウィンの悪夢』は有名なドキュメンタリー映画である。

 商社勤めの美人OLである志村栄利子もある角度で見ればエリートであるが、そこにいると人間関係を壊してしまう距離感の掴めなさや執着性がある。しかしながら、ナイルパーチとして描かれているのは志村栄利子だけではない。各登場人物の全員にそのような側面があり、単なる憑物落としでは解決できない構造にある。

 周りの環境を壊してしまうナイルパーチとしてはサークルクラッシュを想起したが、彼女たちはシスターフッドとして男の友愛を排除しながらも環境を壊していく隘路に入り込む。

ブログでぴったりの親友が作りたかったあの頃

 志村栄利子は愛読していた主婦ブロガーの丸尾翔子と出会うことで彼女とだったら唯一無二の親友になれるような気がして執着を続ける。そもそも他人のブログを読み込んでいくのは一方的に相手のことを知って好意を蓄積し得る危険行為だ。読み込むうちに影響を受けて、この人には「共感」しかないと思えてくることすらある。

 その上で、この人ならこの話題で盛り上がってくれるだろうだとか、これが好きだからと手土産を用意したりなんてすることもできる。あ、これ「進研ゼミ」でやったところだ。人の気持ちが分からなかったはずの自分さえも相手の気持ちに寄り添って現代文の正解を出し続ける事ができるし、相手にもそれを求めてしまう。そうやって人を型にはめるようなコミュニケーションこそが本書では批判的に描かれているのだけど。

 僕自身の経験としても思考が明文化された世界では自分と合わなそうな人に話かけなくても済むし、直近の記事などを読んで会話のきっかけにしてもらう事が多かった。言わなくても伝わるコミュニケーションがショートカットされていく心地良さには危険な中毒性がある。ブログで取り上げた書籍や音楽などが影響しあって『花束みたいな恋をした』の導入部分のようになる事さえあるのだろう。固有名詞で会話をし続ける関係は続かないものだけど。

 『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』はのちに「100パーセントの恋愛小説」として『ノルウェイの森 上 (講談社文庫)』のキャッチコピーになったり、『1Q84 BOOK 1』のモチーフになったりもしたのだけど、この短編自体が僕にとっては100パーセントであった。

 僕自身にも自分自身を記述し続けることで100パーセントの共感ができて、100パーセントの共感をしてくれる女の子を求めるような下心があったのかもしれない。

「不純な動機」とある種の怠惰なコミュニケーション

 主婦ブロガーの「おひょう」こと翔子自身も同性の友達がおらず、面倒臭さがりで心配してもらうためにネガティブな事を言ってしまうような側面があるが、これはブログを介した怠惰なコミュニケーションに心地よくフィットする。今日では誰もがSNSで自分のお気持ちを表明しやすい状態になっているが、過去ログをひっくり返すまでにはなりずらい。ブロガーとしてピックアップされる人数とログ量とそれなりの質が重要だったのだ。

その頃は何をモチベーションにブログを更新していたかというと、「いろいろな人と会うこと」である。

私はかなり内気な性格なので初対面の人とすぐに打ち解けられることなんてほとんどないのだが、ブログを書いていると、それが事前の自己紹介や、詳細に書かれた名刺のような役割をしてくれる。同様に、相手もブログを書いている人であれば、日々どんなことを考えている人なのか、事前に知ることができる。すると、かなり内気な私でも話題に困らず、人と会うハードルがちょっとだけ下がったのだ。

 ちょうど同じ時期から活動していた id:aniram-czech さんも上記のように書かれていたので、この感覚はある程度普遍的なものなのだろう。これはこれで素晴らしい世界であったが、眼前のままならない現実を相対的に苦痛に感じやすくなる側面もあったように思う。

 結局のところで僕個人としては何か特出したものを持っているわけもなくて、ホスピタリティと積極性がなければ何も起こるわけないのだけど、ブログ惑星での活動においては受け身や雑なコミュニケーションを続けても文脈をわかっている人が話しかけてきてくれやすい怠惰な環境に慣れてしまっていたというのがある。無重力化での活動ばかりしていると、筋力が衰えていて地上にでた時に弱くなるのと同じだ。

 たとえコミュニケーションを怠けていても自分の事を知っている人々が好意的に話かけてきてくれるし、書籍化や連載や対談などのこれまでからは考えられなかったような承認もある。それだけで生活するのは難しいが「足し」になる程度の収入さえ。主婦ブロガーの翔子にとっては夫の稼ぎの「足し」になるという現実がブログにのめり込む理由にもなっている。

言わなくても感じ取ってもらえると思い込み、何もしないでいることほど傲慢なことはない。コミュニケーションを怠けることが、どれほど周りの人間を混乱させ、傷つけるか、父に教えてやれるのは自分だけかもしれない。

 翔子は自罰を見せるような怠惰なコミュニケーションを取る父を見てこのように思うのだけど、それは翔子自身のことでもある。目の前の人に話さなくても分かってもらえるという期待を限定的にでも成し遂げてしまうと、その法則をもっと広く敷衍してしまう。家族だから必死に機微を読み取っていたり、読者だから公開された文章を読んでいたのだとしても。でも、それは当たり前のことではない。

自分の事を知りすぎている読者との隘路

 サトラレとして目の前の相手にある種の超能力を求めてしまう一方で、読者は自分のことを「知りすぎる」可能性も生まれてくる。住んでいる街にしかない店であったり、写真への映り込み。学歴だって職歴だって読書遍歴だって思想だって性格だって追体験されて未来の判断までエミュレートされうる。

 前述の通り、他人のブログを遡って読んで追体験していくのには危険な楽しさがあるし、同じ思考回路に染められてしまうこともある。可能な限り「仮想マシン」として入れ替え可能にしようと意識しても、「本当の自分」の思考なんて簡単に影響される。

ミザリー』の熱狂的ファンであるアニーは、発売されたばかりのミザリーシリーズの最終巻『ミザリーの子供』の結末に納得せず、新作小説を破棄した上で続編を書き下ろすことを彼に強要する。大雪で半ば隔離され、ケガで身動きの取れない閉鎖的な状況の中、アニーの異常性が徐々に露わになる。

 当初はミザリーとの類似性を感じていたのだけど、あくまで小説家に原稿を書かせようとするアニーとは異なり、栄利子自身が理想の「おひょう」を作り出そうとあっさりと代筆しようとする程度の底の浅さしか翔子に感じていなかったことが明らかになる。「完璧な共感」ができるための仮想マシンを自分にインストールできて気分になっているし、それまでの会話からも翔子個人のメッキが剥がれているのに執着がおさまらないところに歪さがある。

無敵の二人組が打倒すべきだったものと教訓

 他の登場人物には何かしらの心の穴と、相応の展開があるが今回は栄利子と翔子に絞る。壮絶な女子会を俯瞰で眺めたり、影響を与えていく弱い男達もまたビクトリア湖で適者生存競争を煽る舞台装置であり、私たちのような無敵の二人組に打倒されるべき存在であると栄利子に喝破される。逆に言えば、その仕組みを操る「大きなもの」を倒すためにこそ我々は「無敵の二人組」にならなければいけないのだ。

今にして思えばどうしてそんなに自分を殺そうとしていたんだろうって思う。そんなの女性同士の密な関係に嫉妬している、男側の決めつけなのよ。もしくは男側に立つ女達の決めつけ。私達が競争して傷つけ合うのを見ることで、何故かほっとして嬉しくなって、自分達のことを肯定出来る人達が居るのは本当だよ。結婚しているかいないか、美人かそうじゃないか、子供が居るか居ないか、そういったささいな違いで、女が張り合っていつまで経っても共存出来ないのは、私達がそうなりたいからなってるんじゃなくて、社会に基準を押し付けられて、ことあるごとに競うように仕向けられているからなんだと思う

 ここで村上春樹作品であれば「猫の手を潰すような悪」と無敵の二人で戦い、ハリウッド映画であればハーレイクインの華麗なる覚醒と共にバーズ・オブ・プレイが結成されるのかもしれないけれど、冷徹なリアリティラインのそれは痛々しさのが勝る。

意を決して後ろの荷台に横座りした。翔子の腰に手を回す。びっくりするほど細かった。自転車が走り出す。終電が二人を追い抜いていった。車内がひどく明るく、乗客の表情まではっきりと確認でき、写真がストップモーションで通り過ぎていくようだった。栄利子はふと、涙ぐみそうになる

 自転車の二人乗りで親友を喪失した自転車通学が禁止されていた高校時代の「復讐」を一方的に達成した栄利子は、翔子とだったら無敵に二人組になれると思いこむが、彼女たちの2回目の自転車二人乗りの顛末はどこまでも悲しい現実がショーウィンドウに映される。自転車二人乗りと言えば『キッズリターン』を想起する。映画の二人は始まってもいなかったが、彼女たちには終わりしかない。ある意味では「大きなもの」が今回も勝利するバッドエンドだったのだが、教訓は残る。

「女の一瞬でもその場を楽しくする花火みたいな社交性が、楽天的な調子の良さが、次に繫がらないかもしれない小さな約束が、根本的な解決にはならなくても、実は通りすがりのいろんな人を救っているんじゃないのかな。さっきの話に戻るけど、かつての親友二人が、そうやって頭をフル回転させて懸命に話を繫いでいる間に、その横を女子高生が二人乗りした自転車が通り過ぎていったら……。二人はきっとほっとして、心から笑い合えると思うんだよね。その一瞬だけでもう十分なんじゃないのかな」

 ぴったりの共感や大きな意味や相手の超能力を期待しない緩いコミュニケーション。適者生存競争を望むダーウィンの悪夢を終わらせる対話はある種の「怠惰さ」を超えた眼前にあるのかもしれないと示唆されて物語は終わる。「女子会」という言葉からは女子同士の飲み会を想起するが、本来的にはガールズアソシエーションである。無敵の二人組ではなく多くを期待しない緩い連帯だったら。そのようなインスタントな答えを求めてしまう事もまた「怠惰さ」なのだろう。