太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

他人のパロディを元にしたレトリックが理解できなくなってきているのに、自分の文章にはパロディを入れ込んでしまう自分の気持ち至上主義の憂鬱

サブカル・スーパースター鬱伝 (徳間文庫カレッジ)

タイトルの通り

 もともと家にテレビがないので、ニコニコ動画でアニメを観るぐらいだったのですが、それも殆どなくなりました。艦コレおじさんにもなりませんでした。それはそれで良いのですが、パロディが理解できなくなっていると感じる機会が増えたとは思います。

 アニメ評論であればアニメやゲームの台詞だったり、軽めのブログであればお笑いのブリッジなんかが使われたりする事が多いと思います。でも、それを読んでもなんかのパロディなんだろうとまでしか分かりませんし、いちいち調べたいとも思えませんので「ノイズでしかないな〜」と正直なところで感じています。

 もう少し若い頃は、そのパロディが理解できることでハイコンテクストな共感を得ることができたし、分からなければ調べたものですが、最近は締め出され感の方が強いです。もちろん、こちらの不勉強は前提ですし、それぐらいも理解できない人に読んでもらう必要はないのだという話も分かります。

ブーメラン

 そういう自分も、2chや少し古めの音楽や漫画内での言い回しを好んで文章に入れ込んでしまうことがあります*1。むしろ殆どの人には理解されない事を前提にしていたりして、「その文章は要らないよね?」って頭では分かっていても「書きたい欲」に負けてしまいがちです。なんなの?

 このパロディを使いたくなる動機を分割すると、①自分が書いていて面白いから、②ハイコンテクストな共感を狙うに分かれます。「共感」しなかった読者は実行動に移りにくいという意味ではフィルタリングの役目も担っているのでしょう。

 岡田斗司夫は「自分の気持ちを大切に」「自分らしく生きなさい」と言われ続けて醸成された「自分の気持ち至上主義」を指摘していますが、このフレームで考えると、①は言うまでもありませんし、②においても書き手側の欲望を満たす道具に読者が使われていたのに過ぎないのではないかと思います。

 もちろん商業媒体などにおいては「戦略的にハイコンテクストな共感を狙っていたのだ」という人も居るのだとは思いますが、無料ないしは赤字で書かれるブログや同人誌において、このような気持ちが多かれ少なかれ入ってくるとは思います。「商業媒体ごっこ」というプロ意識のコスプレはありえますが。

自分の気持ち至上主義

 「自分の気持ち至上主義」においては、「いま・ここ」の欲求がなによりも優先し、かつ「だって、そう思ったんだもん」を正当化します。

それどころか、「いま・ここ」の自分の気持ちに忠実でないことこそが、現代においては「負け」であり、その気持ちを貫き通すことこそ、「自己実現」「勝ち」なのだ。


この「自分の気持ち至上主義」では、なによりも自分の主観が正当化される。「だって、そう思ったんだもん」というのは、誰にも反論を許さない。だから、他人を判断するときも、学歴や家柄などという、ある意味「客観情報」よりも、主観で感じたことをなによりも尊ぶ。

ポップカルチャーは数世代に渡りファンを獲得し続けた結果、今やあって当たり前の世代を主役とし生活の一部となった

文章の短命化と「だってそう思ったんだもん」の集積

 いくら文章を書いたところで話題にならなければ「いま」「ここ」で役目を終えてしまう事が見えていますし、仮に話題になった所で3日もすれば忘れ去られます。であれば、自分の「いま」「ここ」の気持ちに正直になってパロディを書くぐらいは良いのかもしれません。そこまでパロディを書きたかったの?とも思いますが、むしろなんで我慢しなきゃいけないの?って話でもあります。

 そこで抑制を効かせてしまえば「だってそう思ったんだもん」の要素が消えていってしまいます。私が増田を好きなのは、普通は躊躇するような「だってそう思ったんだもん」がナマのまま羅列されていることです。釣りや虚言も多々あるでしょうが、少なくとも「だってそう書いちゃったんだもん」は事実です。

 現実問題として、ほとんどの事について「だってそう思ったんだもん」で判断が下されて実行動に移っているのだから、他者のそれを知っておくことは有益になります。なので結論としては「好きにしたらええ」になる事は分かっていたのだけど書いてしまいました。だって「ちょっと寂しい」って思ったんだもん。

*1:この文章のタイトルが既にパロディですし、おすし