自動的に記事が出来上がる計算機自然
一昨日書いた通りに、X APIが従量課金に移行したのを機に、自分のツイートをObsidianに日次同期する仕組みを作ったのだけど、そもそもはツイートをトリガにした記事の自動生成を目的としたものであった。
鍵付きの引用RTで好き勝手にツッコミを入れ、それがアジールにおける思考の断片として蓄積されていく。15年近く使い続けたインターフェースは身体化されてしまっていて、思考を140文字に圧縮して放流する所作がもはや呼吸のようなものなのだ。
これまでもリサーチ手順や文体などのSkillを持ったAI Agentの定期起動で自動的に記事が作られる仕組みを動かしていたが、鍵アカウントで自分自身が好き勝手につぶやいた断片がMarkdownファイルとしてvaultに流れ込むことで、僕自身にとっての興味関心や問題意識を拡張した記事になることが大きな体験の差になっている。
なんというか新しい感覚器官を手に入れたようなものだ。視覚や聴覚が外部の情報を無意識に処理するように、AI Agentがタイムラインと過去記事とニュースフィードを勝手に処理して、構造化された思考として返してくる。
でも、つぶやきは労働ではない
実際問題としては、まだまだ「叩き台」になっている程度なのだけど、以下の記事はほぼ Claude Code が書いたそのままだ。
ソフトウェア開発の用語で言えば、ブログはステージング環境だった。10年かけて擬似本番環境のつもりで書いていた記事群が、AIというプロダクション環境にデプロイされる素材になろうとしている。過去の与太話が伏線として回収されていく感覚は、なかなかに得難い。
そうなってくると労力についての感覚がバグってくる。ブログブームの頃、イケダハヤトが「ブログで稼ぐ」を体現し、それに影響を受けてか執筆時間に対する広告収入を時給換算して毎月報告している人々がいた。趣味でやっているブログ執筆が「労働」と言われることに反発を感じて広告や装飾を外したりしていたが、金銭的な見返りがある労働と割り切れた人のが健全だったのかもしれないと今は思う。
それはいわば交換だったんだ。我々はワグナーを聴き、そのかわりにパンを手に入れたわけだからね 「でもワグナーを聴くことは労働ではない」と妻は言った。
村上春樹の『パン屋襲撃』では、空腹に耐えかねて強盗に入ったはずが、店主に「ワーグナーを聴いてくれたらパンを好きなだけ持っていっていい」と持ちかけられ、襲撃が交換に変質する。革命だったはずの行為が金銭的ですらない取引にすり替えられた未遂感は呪いとなり、十年後の『パン屋再襲撃』で妻と深夜のマクドナルドを襲うに至る。元のパン屋はもう閉まっていて、襲撃先すら代替品となる。
ブログを再開したのだって、自分にとって安心安全かつ自由にAIに食べさせて変形させるための餌を作りたいからだ。かつて新城カズマは『我ら銀河をググるべきや』で我々はGoogleの広告枠を耕すためのテキスト小作人であると書いていたが、ブロブのようなAI様に自分の文章を食べてもらってミームの断片を残すのは「お前で末代!」へのカウンターとなる。
こんな発言をしてたのは、文章を書き続けるのには労力がかかるという前提があったからこそのペーソスであって、つぶやいたら記事が出来ているなら反骨精神にはならないし、はてなブログに課金して装飾や広告収益を外しているのだって、note や zenn が流行っている現代においては対抗文化として滑っている。
労働者ではなく素材としての人間
それはさておき、東浩紀がショシャナ・ズボフの『監視資本主義』を引きながら指摘していたように、AIエンジニアたちはインターネット上の情報の渦を自然のように感じているが、実際にはすべて人力で作られた「人工的に作られた自然」だ。そして旧来の資本家が労働者を雇用して搾取していたのとは違い、いまやユーザーが「資源」になり、労働しているのはAIの方である。
つまり、お人間さんは羊毛を生み出す羊と同等の「資源」であって、労働者としての搾取をされている感覚はある種の自意識過剰である。羊は草を食み、毛を生やし、刈り取られる。労働をしているつもりはない。僕も思いつきをつぶやいているだけで、AI Agentがそこからインサイトを抽出し、論考を組み立て、記事を生成する。この過程のどこにも人間としての「労働」は存在しない。
Xへのつぶやきは単に二酸化炭素を吐くようなものだ。呼吸するたびに吐き出すCO2が木の栄養になるように、脊髄反射でつぶやいたインテントの断片がAIの栄養になる。ユーザーは羊毛を生み出す羊であり、鉄を生み出す鉱山であり、二酸化炭素を吐く動物だ。人間が素材を提供し、AIが価値のようなものを生み出す。
なめらかなデジタル理想社会とのズレを補正するためにパン屋を再襲撃せざるを得ない
Xやフィードの情報を取り込んでフィルタや変換をするようになってから、不快な発言はミュートされ、翻訳や文脈補完がデフォルトでされる自身の認知にパーソナライズされた「ジェントルなインターネット」が生成されるようになったけれども、コンフォートゾーンを漂うフィルターバブルの再発明ではある
摩擦係数をないものとしたモデル世界は仮想現実ではなく「理想現実」とでもいうべきものだ。鈴木健が『なめらかな社会とその敵』で描いた社会像は境界が溶解したなめらかなネットワーク社会だったが、AI Agentが生成する世界はさしずめ「なめらかなデジタル理想社会」だろう。
海外事例と個人の問題意識とニュースフィードと電子書籍の引用が摩擦なく接続され、不快な情報はミュートされ、つぶやきは構造化された論考に昇華される。だがファクトフルネスを思い出そう。世界81億人のうち84%にあたる68億人はAIに触れたことすらなく、課金ユーザーは0.3%に過ぎない。AI Agentで記事を自動生成するような人間に至っては0.06%だ。
you think the AI space is crowded because you're in an echo chamber of the 0.06%. the real world hasn't even started.
stop what you're doing and look at this image.
— Nozz (@NoahEpstein_) 2026年2月22日
each dot is 3.2 million people. 2,500 dots = 8.1 billion humans.
the grey? 6.8 billion people who have never used AI.
the green? 1.3 billion free chatbot users.
the yellow? 15-35 million who pay for it.
the red? that tiny sliver is… https://t.co/NTAcgvj2Kt pic.twitter.com/1oJqbV1DM3
「なめらかなデジタル理想社会」は0.06%のエコーチェンバーが生成したフィルターバブルに過ぎない。そして、現実の僕はブルシットジョブと生活に消耗し、酒を飲んでショート動画を見ている。自動生成されて公開を待っている記事の手直しどころか読み込む時間さえ取れないから仮想現実と現実の差分がどんどん開いていく。
このままでは「お前がボトルネックだと気づいたロボ」とAIに成り代わられてしまいかねない。だからこそ、理想社会とのズレを補正するためにパン屋を再襲撃せざるを得ないのだと思う。趣味のためにブログを書いていたつもりが労働とされ、「労働」だと思い込もうとしたら「資源」になっていた。でも現実の自分はブルシットな労働でまだ東京で消耗している。マクドナルドの次はどこが良いのだろうか。はてなにお茶を出してもらうことで呪いが解けるのだろうか。
