セカ就!
働く舞台は日本だけじゃない!
「セカ就」(=世界で就職すること)にも目を向ければ、選択肢はぐんと広がる。
〈普通〉の男女5人が海外でチャンスをつかむ、実話をもとにした〈就活ノベル〉。
「朝日新聞GLOBE」に寄稿し「NHKニュースウォッチ9」でも活動が紹介された、
いま話題の「海外就職研究家」が贈る、実用情報満載の〈リアル〉なストーリー。
本書は海外就職をした普通のサラリーマン達の実話を基にした短編小説集。キャリアも、就職した国も異なる人々の体験記によって「日本人が働ける場所は、日本だけじゃない。世界を舞台にした就職にも目を向けてみよう!」という「セカ就」を描き出す。
- どう見てもワ◯ミなブラック居酒屋店長からインドネシアへ
- 米国留学から帰国したものの日本的な仕事に馴染めずにシンガポールへ
- 派遣社員とのしての閉塞感を感じてタイへ
- ベテランWebデザイナーが勢いのまま退職してマレーシアへ
- SEとしてデスマーチで疲れ果てた中での震災に心が折れて香港へ
年齢・性別・キャリアはそれぞれだが、共通項として「日本での就労システムの良くない部分にはまりこんでしまっていた普通の人々」であることが挙げられる。逆に言えば、ほとんどの年齢・性別・キャリアの人々に「日本での就労システムの良くない部分にはまりこむ可能性がある」とも言える。そして、その可能性は確実に高くなってきている。
1960年台の「上京」と似ている構造
ここのところで20〜30代の「普通」の人々の「生きづらさ」みたいなものが共有されてきている。日本人が目指すべきとされたロールモデルは既に需要過多なのしれない。そんな中の選択肢のひとつとして、「世界への就職」が候補となるようになった。それは実のところ、1960年代に東京に集団就職していた状況と大差がないのだと本書では主張している。
この本の中で私が伝えたい事は、「舞台が日本を離れて世界に広がっただけ。彼らがやっていることは、日本国内でチャンスを求めて引越しするのと変わらない」ということです。
映画『ALWAYAS 三丁目の夕日』では、堀北真希扮する青森在住の主人公・六ちゃんが、集団就職で東京に来るところから話が始まります。
確かに当時の常識において、青森から東京に行くのは現代において外国に行くのと同じぐらいの心意気が必要だったのかもしれない。今となってはアジア旅行に行く事ぐらいは、そう難しいことでもないし、国内旅行の方が高くつく場合すらある。そして日本と比較して高度成長期にある東南アジアに出ていくという構図も「上京」に似ている。
中国就職は酷かったというイメージ
とはいえ、海外就職というと中国へのコールセンターやデータ入力を思い出してしまいがちだ。月収5万円で現地ではなんとか暮らせるけど、日本に戻る飛行機代すら貯まらないみたいな。
元警察官だった飯田悟さん(仮名)。警備会社に転職後、体調を崩し、フリーターに。仕事を求め3年前、中国・大連にやってきた。今の仕事は、時給340円の日本語データ入力作業。どんなに切り詰め、節約しても、帰国し日本で暮らしていくほどのお金がたまることはない。中国語もできず、友達もいない中、一人、中国で3度目の正月を迎えた。日本に帰ることもできず、よりよい条件を求め「上海へ行く」と言い残し、姿を消した…。
物価水準が安いということは、同じ割合の余裕率があった場合に貯蓄できる絶対値が、その分少なくなるということだ。例えば余裕率30%の時に月収30万円水準と月収10万円水準では、その国での生活に困らなくても貯蓄の絶対額に月6万円((30 - 10) * 0.3 = 6)の差額があり、年間72万円も変わってくる。この額は日本に戻ろうとするときに致命的に響いてしまう。
これは『1泊1400円のドヤでノマド生活するノマドヤ・ワーキング・マニュアル - 太陽がまぶしかったから』にも抱えている構造的な問題である。いくら「利益率」を高めても、売上高の絶対値が少なければ利益額の絶対値が限定的であり、「片道切符」となってしまうわけです。
そこそこの給与はもらえる国と職種
なので、「物価が安い」を基準にセカ就をしてしまうと後悔する可能性が高いと考えてる。それを意識してか、本書で取り上げられているのは、「日本基準からみても、そこそこもらえる国と職種」に限っている。そこには日本の非正規雇用やブラック企業の給料が安い上に税金が高いという現実との相補完もある。
「特に新卒2〜5年目のあなたにチャンス! ジャカルタなら若手でも初任給16〜18万円。しかも、運転手付きの車もついてくる!」
ちょ、ちょっと待てって。18万円って、俺の手取りと大して変わりないじゃないか!
具体的なターゲットのひとつは日系企業のアジア各国にある現地法人が行う「現地採用」枠だ。かつては日本で雇った人材を駐在員として高額な給与や出張費を払いつつ現地法人に送り込んでいたが、現在は現地採用が一般的だという。それでいて「日本人としてのビジネスマナー」の水準を求めていたりもする。
日本人が現地採用枠で働くこと
企業からすれば「駐在員としての追加コスト」を丸々削減しながら日本人を雇う事ができ、労働者からすれば物価の安い国でも日本水準に近い額を貰えるという事になる。これは「物理的移動権力」のオフバランス化です。つまり「任意の誰かを移動させるには大きなコストが掛かるが、最初からそこにいる人に移動させるコストは掛からない」という構造の下でなら、日本の水準に近い給与ぐらいは支払われる。そこに共犯関係を見出す事も可能ではあるが、からくりには納得がいく。
その一方で「なぜ、その国で働きたいのか?」について「簡単に内定が取れる」「相対的にいい給料」という理由だけでいっても難しいという事が強調されている。このスキーム自体も過渡期のものであり、現地に留まることに是非についての再選択はきっと将来的に起こってくる。その時に、「日本の文化や品質をインドネシアにも浸透させたい」みたいなモチベーションがなければ揺らいでしまう。
ビジネス小説であり、旅小説であり、青春小説であり
本書は実話を元にしたハウツー小説なので、『青年社長(上) (角川文庫)』のようなビジネス小説としての側面が強い。それでいて『[asin:B0096PE3WQ:title]』のような旅情としての側面とのハイブリッド構造がある。東南アジアのオリエンタリズムを描きつつ、そこで「暮らし」「働く」のための就職活動から実際に働く姿について、失敗や苦労なども交えてディテール細やかに描き出す。
それは観光やグルメを堪能するだけでは全く見えてこなかった部分だ。その意味では実際にセカ就!をするまでは事は考えていなくとも現在のアジアの経済状況や働き方についてイメージするための材料にもなっている。
そこで悪戦苦闘しながらも、自分らしい働き方を身につけていくビルディングスロマンの要素もあって、爽やかな読後感がある。本書でも強調されている通り、「10年後」を考えた時に経済状況がどうなっているのかは分からないし、明確なロールモデルも存在しない。それでも異なる選択肢を選べた彼らは、何かがあっても、また異なる選択肢を選べるはずだ。
日本の「当たり前」を世界へ
アジア各国の中には経済成長が著しい一方で教育やインフラがまったく追いついてない国が多いし、日本人の思う「当たり前」をまったく感じない気質の国もある。「日本の方が優れている」という話ではないが、ビジネスの正確性という側面から客観的に取り入れるべき改善の余地が沢山あるのだろう。
より少ない労力で仕事が終わるような提案について、相手の立場にたって理解してもらえれば取り入れてもらえる。それは日本のアルバイトですら身にけるような事であっても、十分に効果があると描かれている。これもまた「過渡期」の議論なのかもしれないが、日本の「当たり前」を世界に持ち込むだけで価値がある分野はまだまだあるのだろう。
ただし、日本のやり方をそのまま押し付けても反発しかない。本書では「グローカル」と言われているが、日本の「ローカル」と現地の「ローカル」の間にたって取り持つ事が大切だ。あくまで現地の人々が現地の人々を相手にしているビジネスなので、「グローバル」ではないし、現地のスタッフが主役となる。
過当競争を減らしていく
これまで「普通」の選択肢を狭め続けたこと、その「普通」の供給を充分に用意できなかったことの両面によって、提示されるレールのひとつひとつの競争率を無闇に上げてきた。それによって多数の「普通」でない人々を生み出し、また「普通」のレールに乗れたとしても、低い待遇で我慢させるための口実にされてきた。
その意味では異なる選択肢を取って自身を過当競争から抜け出す個人的なサヴァイヴの観点がありつつ、その道筋のいくつかが「普通」の道筋として残る事は歓迎すべきことだ。それは現時点の「多数派」の利害からしてもである。待遇改善の競争をすべきは企業も同じであって、労働者側の過当競争ばかり熾烈になっていく構造のがおかしい。
彼らが調査兵団として「壁」を超えて困難な道筋に進むことを「大人の責任」とやらで回避させたいのであれば、「普通の選択肢」の魅力を高める必要がある。追い出し部屋はファンタジーだし、サービス残業なんて都市伝説だし、ブラック企業なんて存在しないし、デスマーチも虚言だった事を証明する責任がある。そして、希望者を受け入れるだけの椅子を用意してもらう必要がある。
「普通」の道筋を増やしていくこと
現実的に考えると自分自身では英語の問題や、「普通」に働けている事もあり、現在のところはキャリア・ポルノとして消化されてしまう部分のが多い。それでも娯楽映画の台詞が重大な決断を後押しする事があるように、この本で得た「選択肢」が後押ししていく場面が発生する事があるのかもしれない。すくなくとも小説としては楽しい。
現時点で「セカ就!」を目指すことにについて手放しで勧めようとは思わない。しかし、まずはエリートでなくてもとり得る「普通」の道筋のひとつとして「セカ就!」を認識しておいてもよいのだろう。それは日本のに使い潰されるかもしれない自分を守ってくれる福音になる事があるやもしれない。