スパイスカレー、家ラーメン、個人開発
月曜の朝に起きたらエラーアラートが並んでおり、詳細を確認するとDBのインサートエラー。根本原因としてはDBにコネクションをはったままLLMに問い合わせていた処理があったことによる問題で、「コネクション切断→長時間問い合わせ→完了イベント通知→コネクション再開」という当たり前の実装がなされていなかったのだ。
お客さんが使う本番環境だったら真っ青になるところだが、今のところ使っているのは自分だけであるからLLMにベストプラクティスを教えてもらいながら手直ししつつ、「そういうことか」と苦笑しながら納得する。問題があったことさえ分かれば大抵は解決できる。
40代男性がジムに通い始め、山に登り、蕎麦を打ち始めるというここに、「インディーゲームを作り始める」がそろそろ入ってくる。
— 輝井/terry@空手バカ異世界とかの人・カラテローグ体験版配信中! (@terry10x12th) 2026年3月8日
僕自身も職業としてのソフトウェアエンジニアではないのだけど、AIの助けもあってそれなりのAIエージェントやツールを自作して動かせるようになってきており、「個人開発AIエージェント運営」がちょうど蕎麦打ちや家二郎などのラーメン作りやスパイスカレーと並列するような趣味になってきているのだと感じる。こだわりどころも同じようなものだ。明確な納期も顧客もいないから最先端のスタックにだって挑戦できる。
ソフトウェアがトウモロコシになる時代の自作ラーメン
ところで、広木大地氏が「ソフトウェアはトウモロコシになる」という論考を書いていて面白かった。
トウモロコシは「食料作物」として知られている。しかし実態は、燃料であり、飼料であり、化学原料だ。なぜこうなったのか。答えは生産性革命にある。
(中略)
同じように、ソフトウェアは「アプリケーション」から「知能処理の原料」になる可能性がある。環境に応じて生成される。タスクのために一時的に作られる。実行後に消える。私はこれを「揮発性ソフトウェア」と呼んでいる。
トウモロコシの生産性が7倍になった結果、人間が食べる分は全体のわずか1割になった。残りの9割は家畜の飼料とエタノール燃料だ。ソフトウェアも同じ道を辿るとすれば、人間が直接使うアプリケーションは全体の1割になり、残りはAIエージェントが消費する「揮発性ソフトウェア」になる。
これからのゲームは自分が持ち込んだAI Agent(BYOAA)に経験を与えるロケ地になって人間はリアクションやエピソードトークを切り抜き動画で楽しむことになるのではないかとも思えてくる。
人間の認知資源の総量を考えると、ゲームを含む大半のシステムはAI Tuberがプレイして感想やハイライトを報告してくれるものになっていくのだろう。だが趣味の個人開発は「自分で食べるために作る自作ラーメン」であるから、少なくとも自分自身という消費者がいる安心感がある。
それは自作ラーメンが店より美味いという話ではなく、名前だけ知っていた出汁の素材や製麺の技法(ライブラリやインフラ)を選んでインテグレーションしつつ、使い勝手の悪さや不具合を発見して試行錯誤をし、時々ブログやGitHubで発表する体験。それ自体が概念と実装の記号接地という独特の美味さを感じさせるのだ。
何となく聞いたことのある非同期キューイングやコネクションプールの適正値が実際にタイムアウトで503を返されて初めて身体に入ってくる感覚。それはレバガチャでボタンを連打していた格闘ゲーム初心者が、フレームデータを意識して目押しコンボを覚え始めるぐらいの浅瀬パチャパチャではあるのだけど、プロゲーマー以外がゲーム実況を楽しんでも良いだろう。
できることと求められていることの塩梅を捨てる
ここで重要なのは、僕はラーメン屋を開店するつもりがないということだ。趣味のラーメン作りとラーメン屋の経営はまったく別の行為である。
『らーめん再遊記』10巻の原田正次のエピソードが頭をよぎる。原田は創作ラーメンの「麺窟王」を営む才能ある職人なのだが、「自分にしか作れないもの」への執着から3日から10日ごとにメニューを変え、特殊な調理装置を使い、接客もおろそかにして客を遠ざけていく。「客のためにラーメン作ってるんじゃなくって、ラーメンを磨くために客に出してた」という自己診断が痛烈だ。
一方で芹沢は理想の鮎出汁の淡口らぁめんを酷評された反動で出したラードとにんにくを加えたラーメンが思いのほか好評で、それをブラッシュアップした濃口らぁめんが大衆的な味わいでヒットしてカリスマ化した。原田は芹沢の妥協に失望するのだが、「俺みたいな損得勘定の出来ねえバカがまだいるとは思わなかったぜ!」と笑っていたはずの原田の姿には、「道」の追求と商売の間に横たわる越えられない溝が凝縮されている。
職業としてやるのであれば、「何ができるか」と「何が求められているか」のAND集合を取る必要がある。芹沢は鮎出汁の理想を捨てて濃口という交差点を見つけた。原田の麺窟王は「できること」の極北だったが、「求められていること」との交差点を作れなかった。このバランスを日々取り続けているのが職業エンジニアだ。自分の美学を持ちながらも納期とSLAとステークホルダーの要求に折り合いをつける。その胆力は趣味開発者には真似できない。
ステークホルダーが自分だけの家庭菜園
現実のラーメン屋経営の地獄は、元プロレスラーの川田利明氏が「麺ジャラスK」で15年間身をもって証明している。ベンツを3台スープに溶かし、3年以内に8割が潰れる業界で生き残り続ける苦行。「やめないで」と言う人ほど店には来てくれないという嘆きは、個人開発を公開した途端にGitHubのISSUEとAIのプルリクばかりがくる状況と相似形だ。
最近は「ソロプレナー」という言葉がもてはやされているが、これもちょっと違う。ソロプレナーはあくまで一人で事業を回す起業家であって、ステークホルダーが顧客という他者である時点で原田や川田と同じジレンマを抱える。「面白そうだからアーキテクチャを全部書き直す」が許されなくなる。
ステークホルダーが自分だけだからこそ楽しいのだ。壊れたら直す、飽きたら放置する、思いついたら全部作り直す。この自由はラーメン屋を開店した瞬間に、あるいはソロプレナーを名乗った瞬間に失われる。
冒頭で述べたトウモロコシの話に戻る。産業としてのソフトウェアが「揮発性ソフトウェア」というエタノール燃料に向かうのだとしたら、ソロプレナーのソフトウェアは飼料用トウモロコシだ。芹沢は理想の鮎出汁を濃口に妥協して市場に残り、原田は自分の理想にこだわった結果、市場から退場した。趣味の個人開発だけが、トウモロコシの単収が7倍になっても影響を受けない家庭菜園のトマトでいられる。
終わらない週末趣味としての個人開発
コネクション枯渇を直した翌週にはキャッシュ戦略が気になっていた。キャッシュを入れたらオブザーバビリティが欲しくなり、ダッシュボードを作り始めたら今度はアラート閾値の設定に凝り始める。Claude Codeの設定からソフトウェア哲学を妄想し、スクラム開発とSECIモデルの関係を考える。
そんな妄想と実装の繰り返しは終わらないから楽しいのであって、完成させて他人に渡すことが目的ではない。誰にも見せないダッシュボードを深夜に眺める贅沢は、ラーメン屋の店主にもソロプレナーにも許されない独り占めの快楽だ。週休3日になってほしい。
週末ラーメン作りプログラマーはコネクションプールを枯渇させるし、本番環境にconsole.logを残すし、マイグレーションを手動で流す。ソフトウェアがトウモロコシになって9割がAIの飼料として揮発していく時代に、自分だけが食べる自作ラーメンを作り続ける。原田のように閉店することもない。客がいないのだから。
出汁の取り方を変え、麺の加水率を変え、また別のトッピングを試す。その試行錯誤のサイクルが回っている限り、趣味としての個人開発は40代男性の山登りやラーメン作りと同じ棚に並ぶ資格があるのだろう。 #駆け出しエンジニアと繋がりたい


