太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

リタゲ的コミュニケーションによる個人単位のダサピンク現象について

photo by snupped

リタゲは有効だけど広がらない

 ここ最近でよく反省するのが、リターゲティング的なコミュニケーションをしすぎていたのではないかということだ。リターゲティング(リタゲ)とは、一度は自社サイトや商品ページを訪れたことのある人に限定して再訪を促すような広告配信手法である。そもそも興味があるからサイトを見ていたとか、二度三度と見ることで確信に至るといった理由で良い成果に繋がりやすいと言われている。

 とはいえ、そればかりをやっていても広がりがないし、潜在需要が見込めない。同じような広告が繰り返されることによる辟易(バーンアウト現象)も起こりがちである。日常のコミュニケーションも同じで、その人に一度ウケたギャグだとか話題、似合うと言ってくれたファッション、一度評判がよかった店やメニューばかりを続けてしまって、むしろ「もういいよ!」となるのを早めていないかということだ。

ダサピンク現象に似ているけれどちょっと違う

 それは、個人単位の「ダサピンク現象」である。「ダサピンク現象」とは、「女性ってピンクが好きでしょ?」という偏見によって残念な商品が作られてしまう現象で、「男の子ってこういうのが好きでしょ?」も同根だ。

 ダサピンク現象における偏見の源泉は、その人自身よりも自分の思い込みだとか、社会通念を優先することによって起こるのだけど、リタゲ的なダサピンク現象は、確かに個人に最適化されているし、あながち間違っていない状態もあったという経緯が話をややこしくする。好みだけではなくて、1度だけ「いや」と言われた事を「それは禁止」と年単位で思いこむ現象もある。

「鉄板」を狙いすぎない

 例えば、独り暮らしをしていて実家に帰ると、母親が狙ったかのように「ここ数年で美味いと言った事のある料理」を作ってくれて、有難さと嬉しさと辟易と罪悪感が同居した奇妙な感覚を引き起こすことがあるのだけど、「大切」だとか「貴重な機会」といった感覚を共有するが故に発生しているダサピンク現象に歯車が狂ってしまうのだと思う。指摘のしづらい違和感は精神的な疲労にも転じやすい。

 結局のところで、相手の現在の状態を見ているのではなくて、断片的な情報から幻想を作り上げていないかという点を意識すべきなのだろう。大切に思うが故に「鉄板」を狙いすぎているときは、逆に相手のストレスになっていないかを考えなきゃいけないし、外しちゃっても「逆に面白い」といなしあえる信頼関係があるとよいのかなーとか思った。みんな色々な引き出しを持っているし、少しづつ変わっていくよね。

そういう「当たり前」に気づいていきたい

 そんなわけで「人生に恋愛が必要な理由」というお題で期間限定のコラボレーションブログを書きました。タイトルでは「三人称に惑わされるな」を強調していますが、互いの一人称におけるエゴや失敗や痛みを織り込みつつも過剰な自己最適化をしない「ふたりごと」の宇宙を広げていく過程が重要なのかなーと。