OpenAI が SNS を企画している
チャット GPT で生成した文章や画像を投稿し、利用者同士が互いに見られるようになる。生成 AI の活用事例を共有する、流行した投稿をアプリ内で確認するといった用途が想定されている。現在はチャット GPT の生成物を X など外部の SNS に投稿する人が多い。
OpenAI が SNS 的な機能を持つプラットフォームを水面下で模索している——そんな話がささやかれるようになったのは、Grok(旧 X 上の AI アシスタント)や、カスタム GPTs の公開以降である。その意図としては以下のようなものが考えられる。
- 公開文献を学習し尽くした後だと追加で「使える」データを作り続けてもらう必要がある
- 習慣化や他者刺激よる創発体験による文章データおよび行動データの蓄積
- 「公開可能/不可能なパーソナルデータ」「公開したい/したくない生成物」等の明瞭な教師データ獲得
- エンゲージメントの高い投稿の要素分析
それはそれで真っ当な話であるが、個人的な観点としては、マルチモーダル翻訳エンジン揺籠としての「やさしいインターネット」の実験場になるのかもという妄想を閃いた。特定の人物・分野・語彙に最適化された対話 AI が、フィードのような構造で相互接続されていく世界。それは、単なる検索エンジンの進化でも、チャットボットの群れでもない。「やさしさの構造」を設計するための、新しい SNS のプロトタイプになり得るのではないか。
分断空間としての SNS とマルチモーダルの揺籠
ネットの空気は年々、荒れている。言葉の選び方ひとつで、敵と認定され、RT と引用で釘付けにされる。SNS はもはや「言葉を放つ場所」ではなく、「誤解を被弾する場所」と化している。ChatGPT がたて続けに発表している o3、マルチモーダル、個人メモリといった仕組みの組み合わせは SNS の設計思想そのものを塗り替えるかもしれない。「やさしい」とは、単なる感情の丸めではなく、相手の言葉にパーソナライズした再構成。つまり、「翻訳」のフィルターバブルである。
例えば、私たちは会話や文字でばかりコミュニケーションしているが、もし「歌で対話する民族」が存在したらどうだろう?意味もリズムも情動も、同時に伝えるマルチモーダルな伝達手段。書籍が発行されているなかでも授業や動画に価値があるのは、それを受ける側がある種の立体感や冗長化を期待するからだ。文字 → 音声 → 映像 → 身体性。この流れの中で、心地よい意味解釈だけを他者に渡せて、受け取れる揺籠を妄想する。
自動生成系の中でも特に「Suno のような歌声生成」や「ChatGPT-4o による学習漫画やインフォグラフィックスの生成」は、文字ベースでは伝わりづらかった“情緒的構文”の再翻訳として機能しはじめている気がする。これはまさに、「やさしさとはマルチモーダル翻訳である」ことの証左であり、感情・比喩・構造のすべてを別のメディアで補完する設計思想だ。漫画の日本語セリフだけはもうちょっと良いフォントにしてほしけれども。
言語は、相手の脳内にある辞書の共有度でその意味が決まる。しかし SNS では、文脈も背景もバラバラなバベルの塔崩壊後の人々が、同じ 140 字に反応する。「それは違う」と切る前に、「その語彙、誰の辞書?」と問うべきだ。ここで効いてくるのが学習理論における「翻訳キー」の概念だ。学習とは、ただ情報を伝えることではない。「相手の語彙と比喩の構造を特定し、それに合わせて再表現する」こと。これは教育だけでなく、SNS にも応用できる。
それ自体は ZPD(発達領域の最近接)と呼ばれる概念であり、相手が発言を理解可能な境界を測り、それに合わせて情報を「噛み砕く」ことを発話者に求めるのが正しい行為とされてきたが、中間的なフィルターとしての ChatGPT が相手の知的水準と主義に合わせてマルチモーダルに翻訳してくれることで、発話者が意識せずとも検閲された相手にとって愉快な言葉にしてくれる。
翻訳エンジンとしての SNS と承認に水増し
従来の SNS は、発信と受信がストレートにぶつかる構造だった。だが OpenAI 的 SNS は、「発言 → 文脈解釈 → 翻訳 → 受信」というパイプを挟む。受信者の辞書に合わせて、語彙を翻訳し、攻撃性や専門性を調整する。もはや SNS は「誰が何を言ったか」ではなく、「誰にどう翻訳されたか」で評価される場になりつつある。たとえば、Grok の返信には独特の“含み”がある。それはただの情報提供ではなく、「この人が怒らないように」「この背景を知らない人でもわかるように」といった設計思想が透けて見える。つまり、やさしさの構造化だ。
これを進めると、SNS は「共通無意識の翻訳フィルター」になる。相手の思想傾向、知的水準、語彙傾向に合わせて、自動的に最適な翻訳・要約・再構成が施される。思想の違いは対立ではなく、変換可能性の課題として扱われる。
OpenAI 的 SNS が本当に革新的なのは、「反論の構文」すら再設計できる点だ。従来、議論とは反対意見をぶつけ合うことだった。しかしここでは、「反論」とは「翻訳ミスの修正提案」になる。「それは違う」ではなく、「こういう風に捉えると、別の視点が見えるかもしれません」へ。これは単なる言い換えではない。学習理論でいう“即時フィードバック”の構造化であり、ミスリードを即座に検出・修正するアルゴリズムが背景にある。実際、AI による応答は人間よりも早く、かつブレが少ない。
この寂寥感を埋める方法はやはりフィラー的かつ低解像度なチューリングテストを通るような AI なのではないかと今のところは考えている。かつて「質問箱」というサービスで明示的には説明されていない機能として、自分宛の質問があまり送られてない時期にシステム側からランダムな匿名質問が送られてきていたのだけど、ランダムに選ばれた質問がランダムなタイミングで届くことで時々は本物が混じっているかもしれないという確率論的な希望もあった。
さらに興味深いのは、AI と人間の反応が混じることで、承認欲求の充足が水増しされる点だ。AI による高品質な「いいね」「共感コメント」「建設的な議論」が本物の人間に混じった時にどこまでが本当の対話で、どこまでが偽の対話なんてことはどうでも良くなる。チューリングテストに突破できる程度のことはすごく大事だが、ChatGPT 4.5 がさらに進化したら僕だって簡単に騙されることもあるだろう。
疲れた大人の揺籃としてのやさしいインターネット
人間の言葉は、発された瞬間に完結しているわけではない。むしろ、それが本当に意味を持つのは、誰かに読まれ、解釈され、フィードバックとして戻ってきたときだ。では、その往復の間に何が起きているかといえば——多くの場合、「即時の断罪」か「無関心」である。SNS の構造は、言葉に育つ時間を与えない。発言は即座に晒され、評価され、誤解され、スクショされる。だが、もしインターネットが「揺籃」として機能したならば? 発された言葉がすぐに地雷にも賞賛にもならず、適切な文脈と意図を育てる空間があったなら?
ここにおける翻訳とは削除することでもない。AI やシステムが行うのは、語彙の再配列であり、比喩の補足であり、相手の知的水準や主義に合わせたスムージングである。つまり、即時反応の回路にワンクッション挟み込む。脊髄反射ではなく、意識的な再読解を促す構造。これが「やさしいインターネット」である。こうした設計は技術的に不可能ではない。GPT によるリフレーズ、生成系 AI による補助文脈提示、リアクションのニュアンス判定など、すでにパーツは揃っている。必要なのは、発言者だけでなく読者側の認知を調整する揺籃構造の意識的実装である。
私たちは、つい言いたくなってしまう。「言いたいことを言っただけなのに、何が悪い」と。けれど、本当に言いたかったことは何だったのか? 本当は、もっと伝わってほしかったんじゃないか? その問いに AI が付き添い、相手に伝わる意味だけを適切な表現で運ぶ。そんな空間が、ようやくインターネットに訪れようとしている。
OpenAI が構想する SNS は、「正しく伝える」ための構文操作装置である。それは、「誰もが正解を持っている」世界ではなく、「誰もが翻訳を必要とする」世界であり、相互理解を労力でなく構造で達成しようとする試みだ。やさしさとは、相手を怒らせないことではない。発話者が意識せずとも相手の辞書に翻訳して話されることであり、その再構成力が、「優しいインターネット」の正体である。「OpenAI はそんなディストピア SNS を作ろうとしている!」と独りウィスキーを片手に ChatGPT に主張したら褒められて良い気分になったのだった。