『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の映画をみた
原作が好きだったので、ちょっとした心配を感じながらもIMAXシアターで鑑賞した。映画館で音と映像がついた瞬間に「ああ、こういうことだったのか」という感覚が何度もあった。ロッキーの声、宇宙船の質感、ペトロヴァラインの色。小説を読みながら頭の中で作り上げていたものが、スクリーンに出てきた途端に「自分の想像力の貧困さ」に気づかされる体験だ。それ自体は悔しいのだけど、映画化の正しさのひとつだと思う。
そもそも「プロジェクト」とは、“前に投げ出す”という意味を持つラテン語 proicere に由来する。未来へ向けて、何かを仮に設計し、構築していく試み。それは常に「未完成」であり、「協働」であり、「目的志向的」である。そして、「ヘイル・メアリー」はアメリカン・フットボールの用語で、試合終了間際に放たれる“祈りを込めたロングパス”を意味する。絶望的状況における最後の賭け。
そういう体験がある一方で、「ヘイル・メアリー」を字幕で「神頼み」と訳していたのは気に入らない。全力でやって、限界まで粘って、後はもう「どうにかなれ〜」と放り投げる。神に委ねるのではなく、諦めと信頼の間にある、広大な宇宙においては誰もがちいかわになってしまう現実への科学的根拠を持った最後の賭け。それは人間讃歌であって神頼みではないのだ。
そして最高の映像表現と思っていたよりも小さいロッキーがコロコロと動く表現。誰かが藤子・F・不二雄の漫画みたいと評していたが、絶望的な状況なのにポップで楽しくて、でも泣けてくる良い映画だったのだけど、特に前半は身構えすぎてあまり没入できなかったのが悔やまれる。以後、ネタバレを含む。
シンジ君なグレースとミサトさんなストラット
映画版のグレースはライアン・ゴズリングが演じていて、疲れた眼鏡姿の「インキャっぽさ」があるのが味わい深い。また宇宙でひとり記憶喪失から目を覚まし、試行錯誤を重ねながら情報を受け取っていき、絶望からウォッカを飲むまでがあっという間に展開していく。映画公開前はネタバレ厳禁みたいな雰囲気があったが、前半をモンタージュ的に表現したことで、ネタバレと言われていた部分からが本題だとはっきりと宣言しているように感じた。
また操縦席に座ろうとするたびにグレースが「僕は操縦士じゃない」と座席から離れようとする場面が後半でも効いており、それでも乗り込むシーンがエヴァンゲリオンを感じたりもする。そういう観点だとストラットはミサトさんで、冷徹な目的遂行者でありながらも、人類愛があり、母親のような存在でもある。
ストラットが語る試算が重かった。「このままでは今後30年で全人類の4分の1が滅びる。しかしそれは各国政府が連携して食糧物資をうまく分け合った上での試算だ」と。完璧に協力してもその数字なのだ。彼女が動かしているのは絶望を避けるためではなく、絶望の規模を削るための計画だという構造を知った上で見ると、映画版に追加されたハリー・スタイルズ『Sign of the Times』のカラオケシーンの意味が全然変わる。
歌詞が本作のテーマと奇跡的に合致していて、「泣くのはやめて、これが時代の印だから」「終わりが近づいていると言われた」「大気圏を突き抜けて」という言葉が、人類滅亡の危機を前にして文字通り大気圏を突破して宇宙へ旅立つ状況をそのまま代弁している。ストラットが何を知っていて、何を諦めて、それでもグレースを送り出したのかが、歌一曲で全部滲み出る。ミサトさんが碇ゲンドウ化したような役回りで、その孤独が見えるからこそ、観客はグレースが命を懸ける動機に納得できる。
救うべき地球と昏睡耐性の必然
グレースには地球側にカールというバディがいて、これは原作にない映画オリジナルキャラクターだ。宇宙でロッキーと組む前の人間的なつながりとして機能していて、「宇宙のバディ=ロッキー」に対する「地球のバディ=カール」という対称構造が映画版には意図的に作られている。原作は孤独の密度が高かったが、映画版はグレースの人間関係を丁寧に足しており、決して自分を裏切った地球という感情にはならない。
また映画ラストの船上シーンで老け込んだストラットの腕に「V+取り消し線」のタトゥーがある。これは「終身刑+仮釈放なし」を意味する記号で、原作者アンディ・ウィアー自身が提案したものらしい。本来のシナリオはヘイル・メアリー号発射後に世界各国の協調が崩壊し、ストラットがスケープゴートにされて軍事裁判にかけられフランスで投獄される。それを予期していた彼女は「世界を救うために払うべき犠牲だ」と語っており、脱獄後も逃亡しながら地球を救うために動き続ける。
劇場公開版はその一連の経緯をほぼカットし、氷海を進む船と老けた顔とタトゥー一本で伝えているとのことだ。このタトゥーを知っていれば「この人は刑務所から逃げながらここに来ている」とわかり、カラオケシーンで送り出した側の人間が、最後にそういう姿で映っている。実は3時間45分ほどのロングバージョンがあるらしいので、ぜひ観たいものだ。やっぱりAAAヴンダーに乗ったミサトさんじゃん。
だからこそ、原作では昏睡耐性の遺伝子の有無が大事だったのだけど、それが言及されなかったことで、そんなに覚悟をしているならストラットがヘイル・メアリー号に乗れば良かったじゃんという目線も出てくるのが惜しい。自身は昏睡耐性の遺伝子を持っていないため、片道切符に乗れず、誰かを選んで死地へ送り出しながら自分は地球に残るしかないから文字通り死ぬ気でやるという流れが生まれていたはずだ。このあたりも、もしかしたらロングバージョンにはあったのかもしれない。
広く知識ロック解除されたからこそ語られること
原作が好きだからこそ、序盤のミステリー要素や「96.4度」の条件発見の泥臭いプロセス、南極での核爆破、昏睡耐性の遺伝子を持つという理由で「パーツ」として選ばれたグレースの理不尽さなど重要な要素が抜け落ちているようなDiff発見作業をして没入しきれない自分もいた。勿体無い。ネタバレ問題についても映画版は独特の構造になっている。
プロジェクトヘイルメアリー、『①主人公が誰なのか②目的は何なのか③途中でのジャンルチェンジ』という3大要素のうち、映画版だと①②が速攻で明らかになる上、③も予告でガンガンに流れているので、観た人が「何がネタバレだったの?」と首を捻るのもやむなし。
— 阿G (@ag_hopemon) 2026年3月25日
原作の三大ネタバレが映画では全部即公開になっている。原作を読んでネタバレどころか細かい表現への腕組み評論家モードで映画館に入ってしまった立場からすると、むしろそれで良かったのだろう。どう伏線回収されるかや厳密なプロセスなんてのは置いて肩の力を抜いて映像と物語を楽しめばいいんだよと作品構成としても主張しているようだった。
そして映画公開のプロモーションが出て、ロッキーの話が大っぴらにできるようになったこと自体が一種の「知識ロック解除」であり、原作既読者がずっと封印していた感想を一斉に話せるようになった瞬間だ。大河ドラマの同時実況のように、原作をひとりで読んでいた時には気づけなかった複数の視点を掘り起こして何度も擦る体験を可能にする。そういう意味でも映画化には意味がある。
ロッキーの単語三つ繰り返す挙動に我々は萌えを感じているが、多分アレは極力わかりやすく誤解が生じないようにというかなりのインテリが意図的にやっている挙動なんだよな
— ゆっくりライアン (@sp8a79) 2026年3月23日
かわいいと思っていたものが、実は最大限の誠実さから来ている。異種族間通信で誤解が生じないようにという、高度な知性が選んだ最小プロトコルなのかもしれない。原作を読んでいた段階では一種のオリエンタリズムとしか認識していなかったものが、映画で音として聞いて、ネット上の議論を経て、ようやく腑に落ちる。
グレースは劇中で「重要な会議には全て出ていた」と評される元科学者の教師だ。「フルスタックエンジニア」ではなく、なぜその決断がなされたかの文脈を全て知っている越境型の「フルコンテキストエンジニア」とでも言うべき存在だ。代替案は「何もしないこと」だからこそ、今ある手段で投げるしかないというエフェクチュエーション的な発想が、自分の問題意識ともつながる。
その意味では映画が公開されたことによって、マルチモーダルかつ多角的な視点で原作にも新しい味わいを獲得する体験として、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の映画は良いものであったと言えよう。だからこそネタバレ注意や原作との差分がどこに出てるかなんてことを意識せず、もう一回観ておきたいと思えたのだった。知識を得たらこそ楽しめる。
