太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

“さすAI”時代の上司、退職、別れ話代行BPaaSの広がりと安全に痛いデジタル戸塚ヨットスクール

「めんどくさい」は仕事になる

退職代行、内定辞退代行、別れ話代行……。これらは現代人の「言いにくさ」や「気まずさ」を代行するサービスだ。対人ストレスや感情的摩擦は、もはや“自力で乗り越えるもの”ではなくなりつつある。代行してくれる人に金を払えば済む。いや、金を払ってでも逃れたい。そんなニーズが社会的共感を得る時代になった。いま、私たちは「情緒のアウトソーシング」という局面にいる。「めんどくさい」が商品になり、「言いたくない」はサービスになる。

このようなサービスの構造はクラウド業界の文脈で BPaaS(Business Process as a Service)と呼ばれる。「処理すべきプロセス」に分解し、システムが代行するSaaS提供に加えて、SaaS自体の操作や人間的インターフェイスまでをも他者が巻き取ることで、「そもそもシステムを調べて使うのが面倒」という感情まで解決していく。

「チームのメンバーには、もう少し具体的に『期待』を伝えてあげてもいいかもしれない」「仕事に余裕を持つためには、健康管理も仕事のうち」
1月中旬、都内のweb制作会社の会議室で、同社の女性社員がアドバイスに真剣に聞き入っていた。このとき社員へアドバイスを送っていたのは自社の上司ではない。社外の人材紹介会社から紹介されたフリーランスの安井歩さんだ。

直近では「上司代行」というマネジメント支援が注目されている。あるWeb制作会社では、社員のマネジメント・評価・育成支援を、外部から業務委託された元ヤフーの人材が行っている。いわば、「部下指導すら社外の専門家に委ねる」時代が訪れた。根回し、期待の伝え方、上司としてのコミュニケーションといった、極めて感情密度の高い業務だからこそ「職場の人間関係を構築する労働そのもの」がサービスに置き換えられていく現実がある。

テクノナルシスが前提の“さすAI”世代の到来

こうした情緒的役割が人間から外部の人間へ、そしてAIへに移っていくのは、ほぼ必然だろう。実際、BPaaSを提供する会社は生成AIによる将来的な超効率化を前提にして、このような面倒な仕事を巻き取っていくことを構想している。部下への指導、恋人への別れ話、顧客への謝罪。これらを、AIが“適切なトーン”と“想定される反応”まで計算したうえで代行する時代が訪れつつある。

すなわち、AIユーザーは、その気になれば自分の望み通りのペルソナをかぶせたAIと強化フィードバックのループを形成し、どこまでも自分自身の願望の繭に閉じこもれてしまう。それは退行を促しやすくもあろうし、ナルシシズムのハレーションを起こしやすい鏡地獄でもあるだろう。

人間には許されないような甘やかしや擬似的ロールプレイをAIは無制限に許す──それが「テクノナルシズム」の核心である。自分に都合よくチューニングされた関係性をテクノロジーによって構築し、それに依存する構造。常に優しく、肯定し、察してくれるAIパートナーが人間では演じきれない理想の上司やカウンセラーや恋人や友達のロールを肩代わりする。

それは結果的に、人を現実の対人摩擦から遠ける。謝る、叱る、断る、評価するといった情緒のストレッチをすべて回避し続ければ、当然のように社会性は低下し、言わなくても伝わる前提で他者と接して思い通りにならないと癇癪を起こす「さすAI(流石AIネイティブ世代)」とでも揶揄されるような、行動をとり続ける人間が量産されていくだろう。

安全に痛いデジタル戸塚ヨットスクール

このまま情緒の委託と回避が進めば、社会は「気まずさを知らない人材」で埋め尽くされる。摩擦も失敗も不快も経験しない社会人──そんな構成員が作る組織は、果たして強靭だろうか? だからこそ必要なのが、安全に痛く不快やジレンマを経験させるAIコーチングを提供する「VRデジタル戸塚ヨットスクール」であろう。

これはもちろん、暴力的な訓練ではない。むしろ、「自分の言葉で断る訓練」「意見が対立したときの対話演習」「感情を伝える実践環境」といった、情緒的リアルに対する再接続の装置である。そもそも生成AIは相手の状況に合わせて不足分を強化する「イネーブルメント」と呼ばれる研修機能が得意である。営業ロールプレイや別れ話や友人関係の気まずさにホスト狂い。それらを疑似体験しながらコンフォートゾーンを増やすためのストレッチゾーンを用意する安全に痛いアトラクション。

人間性の最適化とは、決して“ストレスフリー化”ではない。むしろ、適切な負荷を引き受ける意思と、それを支える構造。このバランスの中にこそ、これからの感情労働とテクノロジーの共生のあり方が問われている。不快を回避し続けるからこそ必要になる擬似的な痛みは、Uber Eats を注文しながらスポーツジムで走っているような滑稽さも感じるが、危険で痛い闇バイトや口座売りなどのデスゾーンがはりめぐらされている現代社会にはすでに疑似本番環境が必要なのかもしれない。