「いいひと」戦略ってどうなの?
ネスさん ( id:FFCCEoT_NESS )の『http://lair-onett.hatenablog.com/entry/2013/10/03/002207』を読みました。岡田斗司夫さんの『超情報化社会におけるサバイバル術 「いいひと」戦略 増補改訂版』の書評として書いた『相互レビュー社会を生き抜く倫理経済学〜岡田斗司夫『「いいひと」戦略』 - 太陽がまぶしかったから』についての「モヤモヤ」です。
このエントリは「本の主張と自分の主張の切り分けが甘かったかも」とか「評価経済社会の文脈が暗黙の前提になりすぎていていたかも」というのがあったので、そこは読み取りづらいところがあったかもしれません。ネスさん ( id:FFCCEoT_NESS )は以下のように書かれています。
…あ、わかったかも。「それは本当の「いいひと」ではない」の段落あたりから、違和感があるんだ。
いや、「本当の「いいひと」って何だよ?」っていう揚げ足取りをしたいわけではなくって。コンテクストとしては「上辺だけいい人を演じている状態」みたいな感じですよね。(「いいひと」の定義はさておき)それはわかりますし、別にそれでも良いと思います。特に個人の場合、「複数人に対して「叩きたい」という欲求を高めてしまった時点で負け」という側面があるのは事実ですし。
ただ、それに対する防衛策(って言っても良いんでしょうか)として、「いいひと」戦略は果たしてどれくらい有効なんだろうか…?
そして、バンブルビー通信さん ( id:bbb_network )『http://blog.bumblebee-network.com/entry/three-four-three-like-and-dislike』から「3割の人はどんなに自分が悪いことをしても好きでいてくれますし、別の3割の人は自分がどんなにいいことをしても嫌われます」という文章が紹介されます。確かにそう思うところもありますし、自己啓発的な文脈では正しいのですが、少し違和感を感じてしまいました。
できるなら全ての人から嫌われず、好かれていたいと思っていましたが、人間の相性にも「さしみの法則」が当てはまります。3割の人はどんなに自分が悪いことをしても好きでいてくれますし、別の3割の人は自分がどんなにいいことをしても嫌われます。
残りの4割の人は無関心な人で、いいことをすればいい人だと思い、悪いことをすれば悪い人間だと思うというような人たちですね。自分の周りを見ても、正確にそれぞれが何人だというように数えたことはありませんが、やっぱり好きな人、どうでもいい人、嫌いな人というのが分かれているように思います。
宿命論と確率変動
この「何をしても変わらない」という楽観と諦観は「宿命論」と言われます。「結果は宿命で決まっているからこそ、何をしても変わらない」というわけですね。これを強化する物語構造として「ループ」があり、「何度タイムリープしてもうまくいかない」だったり、「何度ゲームをプレイしても誰かとハッピーエンドになれば、誰かは鬱になってしまうという構造は維持される」という舞台装置によって表現されます。
私自身も宿命論者な部分があり、30歳を超え時点で相当な部分での確率収束が起こってしまい、犯罪以外の何をしようが大きくは変わらないという楽観と諦観があります。今から野球選手にはなれませんし、秒速で1億稼ぐことも、都知事になる事もまぁありえないでしょう。その一方で事故や大病でもない限りはそこそこ安定して暮らせそうだという楽観があります。
しかし、この宿命論にだって「犯罪以外の」「事故や大病でもない限り」といった確率変動装置は存在しています。ネガティブかつ極端な例を挙げていますが、意志をもってやろうと思えばできてしまう事であり、宿命論は案外簡単に壊れてしまうのです。なので「3割の人はどんなに自分が悪いことをしても好きでいてくれます」って事については「色々な留保」が暗黙の前提になっているるのではないかと思います。
コミュニケーションは確率の問題
ところで、シロクマ先生( id:p_shirokuma )は「コミュニケーション能力」について『【コミュニケーション能力=他人の行動確率を変化させて自分にとって適応的な状況をもたらす能力】 - シロクマの屑籠』と書かれています。
で、「コミュニケーション能力」の総論的な意味って何なのよ?という話にうつりますが、私の答えはタイトルのとおりです。「コミュニケーション能力=他人の行動の確率を変化させて自分または双方に適応的状況をもたらす能力」です。
この定義づけにはネタ元があります。進化生物学者のジャレド・ダイアモンド博士が、どこかの本のなかで“コミュニケーションの定義”を書いていたんですよ。“行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである”
ジャレド・ダイアモンド著 長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ)』草思社,1999,p.205-206より抜粋
「100%の人に好かれる事はない」という宿命論については概ねYESですが、他個体の行動確率は変化しえます。これには「特定の人が意図した行動をしてくれる割合」「あるグループのうちの何割かが意図した行動をしてくれる」の2側面があります。
このうち前者については「何をしたって嫌われる」という人が設定されてしまう事は起こりえますが、残りの7割についてはかなり流動的です。「(字義通りに)何をしたって好かれる」は相当な無理があります。その意味では、ネガティブ側には一気にふれやすいが、ポジティブ側は積み上げないといけないという非対称性があるのです。よって「何をやっても」には「嫌われない程度には」というブレーキが暗黙的に内包されています。
後者については母数が大きいので比較的統計的有意性が出やすいです。それについてまで否定しはじめるとマーケティング理論を全否定しなければなりませんし、セブンイレブンの『鈴木敏文の「統計心理学」―「仮説」と「検証」で顧客のこころを掴む (日経ビジネス人文庫 ブルー か 3-2)』などでも再現している以上、その宿命論には嘘が含まれいます。人には「こうなったらこう動く」という部分を持っている確率がそれなりにあり、「こうなったら」という部分は一定の範囲でコントロールしえる。つまり「統計的有意性が出るぐらいの範囲では確率変動できる」というのが現実なわけです。
「いいひと」の防御力とは一定の範囲で有利な確率変動を起こすこと
「いいひと」でいる間は「叩きたいと思わせにくい」「叩いている側の違和感が強くなる」という二重の防衛力を持つこととなります。
これって実際のところはどうなんだろう?と思ってしまうわけです。いや、もちろん「いいひと」より「イヤなひと」の方が叩かれやすいのは確かなんですけど。
ただ、(特に匿名の)ネットの場合はアンチも人気の証というか。人気が集まれば集まるほど、その人の人格を問わず、理不尽な叩きって発生してくるんじゃないだろうか。逆に、人気が無い人なら、そんなに集中して叩かれることもなさそう。
(※ただし炎上案件は除く)
そもそも、叩いてる側の人が「違和感」なんて感じるんだろうか?という疑問もあります。もし自分に疑念を抱いているなら、そんなことできないんじゃないかなって。
このことについても同様です。「いや、もちろん「いいひと」より「イヤなひと」の方が叩かれやすいのは確かなんですけど。」とある通りに、既に一定の範囲で有利な確率変動は起こっています。そして、「叩いてる側の人が「違和感」」は、叩かれている本人の反応は無視することもあるでしょうが、別の人の反応については気にしています。と、いうのも顕名かつ公開で叩くという行為を行う動機は叩いている本人や無党派層を自身の側に取り込むための確率変動行為である場合が多いからです。もちろん、ただ叩きたいだけって人もいますし、匿名の場合はまた話がややこしいのですが。
そんななかで「理不尽な理由」「同情できる理由」で叩いている事が明らかになれば、むしろ叩いている側の味方が減ってしまうので、その確率変動行動が悪手だったと認めざるをえなくなるということです。そして「理不尽な理由」「同情できる理由」かどうかというのは得てして情動的な部分から判定されてしまうものです。これも一定の範囲で有利な確率変動ですね。
宿命論を感じなくてよい部分への宿命論
「3:4:3」は直感としては正しいのかもしれませんが、私自身は「2:6:2」というパレートの法則を信じていましたし、実態的には「3:5:2」だったりするのかもしれません。そして無党派層はちょっとした事で、どちらかに固定化していきます。故に「何をやっても3割にしか好かれないのだから、好いてくれる人だけを大切にしよう」という宿命論はちょっと危険だと思うのです。
それは「いいひと」戦略が正しいという話ではなくて、そこの諦観はデマばかり流す元ジャーナリストなどを擁護するための無敵論法に使われたりしている現状があり、かつ一定の範囲で確率変動出来る部分にすら宿命論と寄与の放棄をするのは選択肢を狭めてしまう事なので「敢えて」なのかは明示すべきだと思いました。
どこまでが「一定の範囲で確率変動可能」なことなのかについては難しいのですし、「根治治療としての正しさ」と「鎮痛剤としての正しさ」は対立するという、いつもの問題です。とはいえ、単独試行かつ努力しても達成確率が10%程度しかない事に宿命論を認めるのが仕方ないけど、100回試行できるならやらない方が損だといったラインはあるので、ひとまとめにすべきではないと思います。
感情労働から人格労働へ
おいらの考え方としては、「理解してもらう」ための努力を惜しまなければ、そして「理解しようとする」ことを忘れなければ。そんなに「いいひと」を演じる必要なんてないんじゃないかな、と思っています。
ここについては、同じ意見ではあります。決して無理に演じろということではなくて、どちらも同じぐらいの感情負荷であれば、いいひとを選んだ方が期待値が高くなるので、結果として費用対効果が高いかもという話です。演じる負荷が高いのであれば費用対効果的にも割に合いません。「感情労働」に債権感を感じてしまうのも仕方がありません。
しかし、「人格労働」と表現していた事があるのですが、殆ど感情労働的な負荷が発生しないで感情労働の文脈における「正解」が選べる場合がある事も認める必要があると思うのです。そんな時に敢えて毒舌キャラを演じたりするのは損になったということです。そもそも「いいひと」の傾向をもっていなのに「いいひと」戦略を選ぶのは疲れて非効率的であろうとも思います。そういうわけで「いいひと」について書くほど、私が「イヤなひと」にセッティングされるという問題について、なんとかならんものか・・・。