「片づけ」と「掃除」は違う
家にある物が少ないし、ごちゃごちゃしている状態が嫌いなので「片づけ」は得意なのだけど、「掃除」については忙しさを言い訳にサボってしまうことある。床や机のホコリもそうだけど、キッチン・洗面台・風呂場・トイレなどの水回りは普段からの掃除を心がけないと壊滅的に汚れていってしまう。
そもそも「片付け」と「掃除」は違うのだけど、混同されがちであった。いわゆる「片づけ本」は掃除の範疇を超えており、使えるテクニックも異なる。
モノについては他律的に「片付き続ける」ようになっても、その後もほこりがたまらなくなるわけではない。寺にも「片づけ」はないが「掃除」はある。繰り返しになるが、モノが床にあふれている状態で掃除機を掛けたって二度手間、三度手間になってしまうため、同時に行なってはいけない
ミニマリストを目指して物がない状態を作っても掃除は続くのだ。もちろんのこと、片づけには掃除をしやすくするという効果もあるのだけど、水回りまで「散らかっているから掃除ができない」という状況は少々末期的であり、「掃除」という工程が独立して疎外されている場合が多いだろう。
掃除には定期的な他人の目が重要
自分ひとりのことであれば、「見て見ぬふり」ができなくもないのだけど嫌な気分にはなるし、衛生状態は健康状態にも影響しかねない。シヴィライゼーションにおいても都市の「衛生」が人口維持に必須のパラメータであった。これを防ぐためにはホームパーティや宅飲みの開催を告知するのが手っ取り早い。掃除が必要なのにサボってしまうのは結局のところで優先順位の問題なのだ。
そして料理を軸にしてコミュニケーションを得られるようにもなっていきます。孤独な生活を楽しんでいるとはいえ、飲み会などに顔をだすのも難しく、社会的に成功していった友人たちに心配されたりする事も多かったようです。だったら料理の「研究発表会」としてホームパーティを開催したところ評判になって定期開催されるようになりました。
宅飲みともなれば汚いキッチンで調理をするわけにもいかないし、トイレやシャワーを貸すこともあるだろう。部屋そのものを掃除しておくのはもちろんとして、水回りまで綺麗にしておかないと気まずいし、会自体が壊れてしまう。『年収100万円の豊かな節約生活』でも、ホームパーティを定期開催する話があるのだけど、ついつい崩れてしまう自分を律する効果が大きい。
「よそ行きの自分」への聖域を設けない
若い頃は「よそ行きの自分」と「うち向きの自分」にギャップがある方がよいとすら思っていて、独りの時には敢えてだらしなくなく振る舞っていたり、インターネット用の人格を作りあげていたのだけど、それは結局のところで若気の至りというか、「本当の自分」なんてどこにもいない。
特出すべき聖域なんて本当はないのに過剰に隠していて、隠されているからメンテナンスされていないというのが実情であった。時間軸においてまで「よそ行きの自分」だけで満たすのは疲れてしまうけれど、場所軸における聖域なんて本当は必要がないのかもしれないと思う。そもそもオタ部屋とかがあるわけじゃないしね。
文章においても、結局のところで人に読んでもらうための体裁があるものじゃないと自分が後から読んでも分からなかったりするし、「1年後の自分は他人」なのだから、出来るだけは「よそ行きの自分」を保てる方法を考えた方が捗るし、残っていくのではないかと思う。「大切だから独り占めしよう」と思い込んでいる場所やモノは結果としてあまり大切にできていない気がするのだ。