太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

車輪の下「で」

photo by Pauline Mak

車輪の下

 『http://circle.hatenablog.jp/entry/2013/12/30/190151』の課題になっていた『車輪の下で (光文社古典新訳文庫) 』を読み終わった。光文社版の邦題は珍しい。これまで『車輪の下に (角川文庫 赤 79-4)』が例外的にあったけれど基本的には『車輪の下』だ。

 なぜ『車輪の下で』に邦題を変えたのか。それは「車輪の下で」もがき苦しむ事に焦点を当てたかったとのこと。確かに「車輪の下」という直訳では意味が分からない部分があった。「車輪」は学校、進学、伝統、権威などのメタファーであるとの事だが、そもそもドイツ語の「unter die räder geraten(=車輪の下敷きになる)」と言う言い回しには「落ちぶれる」という意味があるそうだ。

 光文社版訳では「よろしい、それでいいよ、きみ。手を抜いちゃいかんよ、さもないと車輪の下敷きになってしまうからね」というそのものズバリな台詞があるのだが、おそらく新潮社版訳だと「落ちぶれる」になってるのではないか。その辺は確認したい。

ここから読書会用メモ

 「車輪の下に」だと、これから落ちぶれるかもしれないという話に読めるが、「車輪の下で」だと既に落ちぶれている感覚がある。「車輪の下に」フォーカスするのか、「車輪の下で」についてフォーカスするのか。もちろん両方とも必要だし、その過程こそが重要なのだが、どこが境目だったかについての議論は必要なように思う。

 学園部分については『「さとりブロガー」は「書けないこと」を料理する感情労働から人格労働への転換? - 太陽がまぶしかったから』の後半部分に書いた「ハンス=秀才=感情労働=疲れる」「ハイルナ―=天才=人格労働=疲れない」という話や、『今年も1%が終わったワケだけど、進捗どうですか? - 太陽がまぶしかったから』における「車輪とは期待=他者の欲望」辺りが論点になるかな。州試験が「2位」なのをセツヤクエストが「2位」 だった自分に引き寄せてみたり。

 地元に戻ってからについては、『山月記』がキーになる気がするので再度検討したい。ただハンスには芸術的な表現を目指す欲望が最初からなくて、そこはヘッセの人格をハンスとハイルナ―に分離した結果なのだろう。ラストについて『我輩は猫である』に似てるといえば似てる部分もありつつ、両方共1905年に発表されているという事実に気付いた。それはちょっと穿ち過ぎか。

自分基準の徹底

 そういうのって素敵だなと思う。自分の基準の徹底というのは実際には難しい。それをOKとできる権限と能力と動機が必要というのはもちろんなのだけど、適切な自己肯定感が必要なのだろうと思う。

 それには適切な期待と、その承認の積み上げが必要なのあろうと思うけれど、うまくいく例というのは少なくなってしまったようにも思われる。それはなにも現代の日本に限った話ではなくて、『車輪の下で (光文社古典新訳文庫)』が描く事そのものなのだけど。