スカイプ読書会をした
昨夜は『第3回Skype読書会「ウィスキーを片手に『ドグラ・マグラ』(夢野久作)」開催のお知らせ - 太陽がまぶしかったから』をしていた。花火大会やお祭り情報を眺めながら、Skypeを介して『ドグラ・マグラ』について話し合うというのは倒錯していてよい。まとめ記事は別途書くとして、今回は「答えのない謎」について語ることについて書きたい。
そもそもミステリー小説とは「フーダニット(誰?)」「ホワイダニット(どうして?)」「ハウダニット(どうやって?)」という要素を明らかにしていくものである。コロンボだったら「フーダニット」が物語冒頭から分かっているとか、作品によって比重は異なる。この構造にあてはめると『ドグラ・マグラ』には、この物語の語り部たる「私」に対する「フーダニット(誰?)」にしかミステリーがなくて、「ホワイダニット(どうして?)」や「ハウダニット(どうやって?)」については手がかりが殆ど無い。
殺人事件そのものは起こっているのだけど、その犯人も動機も手段も明瞭に書かれていて、少なくとも物語世界の中では理屈が通っている。ただし、それらが「信頼出来ない語り手」によるナラティブを前提にしているので、トリヴィアルである。心理遺伝や離魂などについて「この物語世界においてはあるのだ」と書かれれば読者は信用せざるを得ないのだけど、その大言壮語は「私」にそれを信じさせるための、壮大な嘘であった可能性も捨てきれない。「私」は語られる殺人事件の世界にとってはメタに存在しているという入れ子構造にある。
何が確実に信じられるのか
物語世界に存在する主人公たる「私」を騙すための仕組みと、物語世界をメタに眺める「読者」を騙すための仕組みには大きな違いがある。自身が世界に存在する限りは物理法則や再現性を追求せざるを得ない。現実世界で魔法を見たら、最初にトリックを考える人のが多いだろう。しかし物語世界において魔法が使われた場合、「ここではそれがありえるのだ」と書かれてしまえば、それを眺める「読者」としては信じざるをえない。
これはSFについても同じだ。「STAP細胞はあります」と現実世界で言われれば、再現実験が必要になるわけだけど、物語世界においてそう書かれたら、それを信じた上で物語を進めざるをえなくて、STAP細胞そのものの正当性はトリヴィアルになる。
そもそも事件そのものだって、読者は書かれた事を信用せざるを得ないという前提に立ちながらも「作中作」「幻覚」「記憶喪失」という構造があるかぎりは、どんな読み解きかたであっても、「何を信じて」「何を信じないか」という任意の前提を元にした砂上の楼閣にならざるを得ない。そもそも公式の「正解」があるわけでもないので、読書会の中で意味のある「答え」が見つかるわけもない。
答えのない謎は結果平等
しかし、それに価値がないかと言えば、むしろ逆で、その運動量にこそ価値があるのだと言える。
分からなかった人も
分かったつもりの人も
分かったふりをする人も
みんな平等に挑戦して
みんな平等に不正解
答えのない謎は結果平等
過程の楽しさだけが不平等
池田仮名『Le Cahier du Étranger』より
正解がないという結果平等が保証されているからこそ、過程の楽しさだけは不平等になる。リスクテイクを最小限にしようが、曲乗りをしようが、オーソドックスに飛ぼうが、みんなが平等に墜落していくなかで、どうやって飛んだかという軌跡だけが残る。意味のない人生のように。
「ドグラ・マグラ」という言葉にも明確な意味があるわけでもない。しかし「意味がない」と「価値がない」は違う。同じ単語を使うからこそ、どの文脈で使うかが重要になるのだ。『語りえぬものについてはYoせざるをえない - 太陽がまぶしかったから』。言葉を尽くそうが、尽くすまいが、結果平等に近づいていくのだけど、だからこそ、どのような軌跡を描くのかという問題にだけ集中しえる。