太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

西加奈子『通天閣』〜工場とスナックが交わる通天閣でこれまで言えなかった全員分の「好きや!」を叫ぶ

通天閣』で交わるふたつの生活

 『サラバ』で第152回直木三十五賞を受賞した西加奈子氏が、2006年に発表した小説である。「底辺」とか「場末」という言葉似合う工場勤務のおっさんと、スナック勤務の女性の生活が交互に描かれながら、大阪の「通天閣」を交差点に、ほんのちょっとだけ救われる展開に何か温かいものを感じる。

の大阪ミナミの町を舞台に、若々しく勢いのある文体で人情の機微を描く。このしょーもない世の中に、救いようのない人生に、ささやかだけど暖かい灯をともす絶望と再生の物語。第24回織田作之助賞受賞作。 [asin:4480426698:detail]

ゆめにっき

 章の始まりには、登場人物がその晩に観た「夢」が記述される。大抵は「焦り」だったり、「喪失」を暗示しているのだけど、その人物の心理状態を直接的に表現するよりも、真に迫るものがある。フロイトがどうとは言わないが、夢を覚えて言語化すると、その心理状態が余計に内面化されることがある。

 寝覚めの悪さや、物が散らばっている描写などが、「丁寧な暮らし」とは正反対の独身暮らしをイメージさせる。壊れたエアコンを直してもらうのが億劫なまま、厚着をしながら寝ているのは、僕にそっくりである。

 コンビニの蕎麦といなりずしのセットを食べ続けて脚気になってしまったり、行きつけの店の未亡人にやけに特別待遇をされたり、店に着くなり「いつものですね?」と言われて、嬉しいと思うよりも先に、面倒になってきたと自意識過剰なフラグを立てて憂鬱になってしまうのも稀によくある。

ほんの少しだけのつながり

 交互に描かれる工場とスナックの登場人物達には殆んど接点がないのだけど、工場で作られている製品がスナックで出てきたり、登場人物の設定描写などにいくつかの伏線がある。と、いっても別にそれを読み解いたからどうという作品でもなくて、通天閣であったちょっとした事件によって、互いの欠落をほんのすこしだけ埋め合って、また別々の生活に戻るだけである。だけど、人生とはそういう「強いつながり」による劇的な何かだけで回っているのではなくて、「弱いつながり」による偶然の連鎖なのであろう。

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 この作品のキーのひとつは「自転車」である。坂の多いミナミにおいて、何かを考えながら自転車を漕いで通勤をしたり、家に向かったり。そして、すこしだけ仲良くなれた工場の新人に自分の自転車を貸してやって、代わりにそいつの乗ってきた自転車を漕いでいる所を警官に呼び止められてか、通天閣での交差がはじまる。

これまで言えなかった全員分の「好きや!」

 実際に起こる事件については、外形的には本当に下らない事である。だけど、止むに止まれずの事態で、これまで言えなかった全員分の「好きや!」を、ありったけの大声で叫び、その声が轟くところに個人的な救いがある。

これはシンの分!!
そして…これは!! ユリアの分だ!!
3人目はあの幼い兄弟の分!!
最後にこれは…きさまによってすべてを失ったおれの…おれの…このおれの怒りだあ!!

 もちろん、これまでに溜め込んでしまった大き過ぎる愛を唐突に受け取る代理人は困惑するだけなのだけどけれども、本人に直接的に返す事のできなくなった心は、不信感や温度差を抱かれながらも、別の人にバトンを渡していくしかない。今だから言えることを、今になってから本人に言ったところで返したことにはならないのだ。

 場末のスナックのどうしようない日常への丁寧な描写にニヤリとしたり、意識的にテンプレートをなぞっているであろう人物達のありがちな苦悩が淡々と描かれ、大きな後日談もなくフェイドアウトしていく読後感が気持ちいい。他の西加奈子作品も読んでみようと思った。

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