太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

リアル接待いいね競走としての社内限定ブログと公開SNSでの法人格運用

リアル接待いいね競走としての社内限定ブログ

 このブログを更新しなくなった時にどこに書いていたかを振り返えると社内限定公開のブログを書いていることが多かった。基本的には日報や週報を書く為のシステムであるが、組織論や技術情報の共有などもしており、それで「いいね」を稼ぐことが仕事と生きがいの中間のような存在となっていた。

 歳を取って会社に長くいると本当に語りたい課題の中心が組織ローカルの話題にフォーカスしていくものの、いまさら機密情報の公開やリアル人格との紐付けをやらかす訳にもいかないし、そもそも一般論は面白くない。

 一般論を前提にして良い意味でローカライズしながら適応していくことに意味と面白みを感じるし、例え接待であっても「いいね」は嬉しい。いやらしい話をすれば社内政治力や給与にさえ繋がっている。僕の場合はリアルな効能を得る為にこそ主戦場を限定公開空間に移してたのである。

公開SNSの法人格運用と人間性の喪失

 その一方で、最近の Twitter や Facebook には実名顔出しでリアルな話しかしていないアカウントが増えたように感じる。ローカルな気付きをある程度のぼやかして名言風に書いてみたり、何らかのカンファレンスやイベントで誰それと会ったという写真ばかりで構成される。

 リプライ形式で○○さんを尊敬していると言ってみたり、誰がいいねをするかでリードリストを作ってみたりと、営業や広報や人事としてのリアルな効能を公開空間だから得ようとしている。

 どちらが良いとか悪いとかではなくくて、ある集合におけるリアルの範囲をコントロールしながら人間としてではなく費用対効果をシビアにみた法人格としてのブログやSNS更新が当たり前になってきているのだと感じる。アフィリエイトの為の役に立たない記事を書き続ける人々のことを人間性の喪失として侮蔑していたのに、僕自身のやっていることとも底では強く繋がっている。

消費者としての世界ランキング

 それでも企業の利潤の追求と自分が完全に一致した法人格になっているなのかと言えば、ちょっと違う気もしている。僕自身はそれなりの給料をそれなりの快適さで手に入れたいだけであって愛社精神がある方ではないし、ある利潤を手に入れる為のブログやSNSの運用もその企業のためだけを考えていたらむしろ不合理であり、他の会社にも転職しやすくなる「消費者」としての力を手に入れる為にこその行動規範なのであろうと見ている。

 教育や医療や報道について、「消費者」としての視点を過度に持ち込んだ途端におかしな事になるケースは多い。「消費者」は「最低限の代価で最高のサービス(=コストパフォーマンス)」を求めるべく行動するわけであり、それが全体最適や未来の価値から遠ざける。

 例えば大学生が「もっとも少ない学習量を代価にして、もっとも見栄えのいい学歴という商品」を手に入れようと「消費者」らしい振る舞いをすれば、「無知であるにも関わらず、一流大学を出ること」が勝利条件となる。実際にそれを自慢する人もいて、謙遜や自虐風自慢もあるのだろうけど、根底にあるのは他者よりも「買い物上手」であった事の誇りであると内田樹は『評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)』で主張する。

 消費者として「買い物上手」であることが正しいほど、投資者としては買い物下手な消費者を探す必要性が高まるし、これは逆も同じだ。そもそも消費者の購買行動は企業への投資そのものである。絶対的な金額ではなく「買い物上手」の世界ランキング少しでも高める為の行動に支配されつつある。

二次的貨幣投資家としての不合理

 あるサービスを運営する為の文脈においては「二次的貨幣」を手に入れる為のスキームが重視される。何かの行動において重視されるのは目先のお金だけではなくて、データや人間関係や信用や経験値などの「あとで一次貨幣を稼ぐ為の装備」を如何に低コストに二次的に手に入れられるかと言う「買い物上手」を競うのが正しい姿だ。

 その一方で我々は二次的貨幣から「あとで一次貨幣を稼ぐ為」という定義を外すこともできる。二次的貨幣に特化して装備を整え続けた結果として得た力で何をするかという部分にこそ人間性が宿るのかもしれない。

 僕自身は一時貨幣も二次的貨幣もパブリック空間で得るつもりや能力があまりなかったし、それでも生きていける理由が(大多数の人々と同じ様に)ドメスティック空間にあることを考えるとブログ大戦略としてはとっくに敗北している。それでも不合理だと分かっていても酒を飲むように、あまり読まれない文章を書きたくなる日の為にここは残している。