太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

到着と反応をほとんど期待しない郵便的な紙飛行機またはタイムカプセルと風の時代

風の歌を聴け (講談社文庫)

到着と反応に支配されていた黒歴史

 過去のことを考えるほどに仕事やプライベートな問題から逃れるかのように「人望が欲しい」という『最強伝説黒沢』のような気持ちがあったことが蘇ってきて布団を被りたくなる。PV数がほしくて、ブクマされたくて、褒められたくて、商業媒体で書きたくて、広告収入が欲しいといった欲に支配されたことがなかったなんてとても言えない。ブログはパチンコであり、Twitterはスロットマシンなのだ。

 書いたことは多くの人に到着して欲しいし、反応が欲しい。とにかく自分以外の人間を巻き込みたい気持ちがあったし、自分も巻き込まれていこうとしていた。だけども、個人的なことに他人を巻き込む必要はあまりないし、他人からの影響を受け続けて何も考えられなくなってしまうのも怖い。なので、あえて独りで居る趣味を作って鍵付きアカウントと人工知能でセルフエコーチェンバーを加速していきたいと思っている。

郵便的な疎外の奇妙な心地よさ

誰に向かって書いているのかまったくわからない
まさに「つぶやき」って感じで中年男性がひとりでぼそっと独り言を言っている姿が目に浮かぶ
それでいて反応が欲しそうな「チラッチラッ」的な気配がおぞましい

 そんなことを思っていたら、反応が欲しげな独り言についての揶揄が到着して勝手にダメージを受けてしまった。だけども、この増田は僕のことを意識して書いていないだろう。あくまで勝手にこっちに到着して、こちらの状況に当てはめて過剰に反応している事を自覚している奇妙な心地よさがある。

 これは、ジャック・デリダのいう「郵便的」という概念によって説明される。手紙は書かれてから届いて読まれて解釈されるまでに紛失や時間的経過による変容が起こり、当初の意図とは異なる人に異なる届き方をする「誤配」を織り込んだコミュケーションである。つまり、件の増田から僕自身に直接的な害意があることなんてほとんどありえないという確信と寂寥感がある。

現代における郵便的コミュニケーションはそもそも届かない

ということを考えると、ブログのような場所で、その時に思いついたことを書き留めておくのは、だいぶマシな方法だと思う。
運が良ければ、同じような関心のある人が読んでくれるし、もっと幸運な場合、文章に対する感想を書いてくれることもある。

 改めて表明している「感想をブログで書いてもらえると喜びます」について、パフォーマティブにありたい一方で、現代のインターネットにおける郵便的コミュニケーションは「届いたが反応がない」「読まれたが変な解釈をされる」というフェイズに至るこそが高望みであり、そもそも手紙は届かないことがデフォルトであるという諦観の織り込みが必要になる。読んでもらうのにも運が必要となる。

 この寂寥感を埋める方法はやはりフィラー的かつ低解像度なチューリングテストを通るようなAIなのではないかと今のところは考えている。かつて「質問箱」というサービスで明示的には説明されていない機能として、自分宛の質問があまり送られてない時期にシステム側からランダムな匿名質問が送られてきていたのだけど、ランダムに選ばれた質問がランダムなタイミングで届くことで時々は本物が混じっているかもしれないという確率論的な希望もあった。

「ほとんどない」は少しの希望を内包している

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 あまりに有名な村上春樹の書き出しの文において、文章を書くことは絶望である一方で「完璧な絶望がない=少しの希望はある」ことが提示されている。僕自身も反応が欲しそうな「チラッチラッ」をしながらも、ほとんどは届かないことを分かっている。でも、だからこそ僅かに混じるかもしれない感想に希望を見出して機械生成を積極的に混じらせる態度もあり得る。

 『文化系トークラジオライフ』において鈴木健介がChatGPTで生成した歌詞を全部捨てたり、海猫沢めろんがChatGPTで生成した小説の書き出しを捨てているが、でもだからこそ手が進んだ体験を話しており「AIは(最初の一押しをしてくれるための)風」と表現されてしていた。

 「風の歌」を思えば「Alは風」であり、2020年12月からは「風の時代」だそうだ。従前までは届かないかもしれない文章を海に流すボトルレターに例えがちだったけれども、チラシの裏に書いた文章を風に乗せて飛ばす紙飛行機のメタファーが時代に即しているのかもしれない。

 紙飛行機が届いて読んでもらえることなんてほとんどないから、基本的にはAIに反応してもらい、AIからの言葉に反応するのだけど「AIのみが話し相手」というテーゼと寂寥感を克服する二重思考は難しいから「ほとんどない」という留保をしたくもなる。

タイムカプセルとしての確定的な郵便

 しかしながら、もっとも単純な希望としては自分にとってのタイムカプセルとしての郵便的コミュニケーションがある。自分だけは自分が書いた文章を後から読み返すだろうし、後に考えが変わることによって、また違う味わいが出てくる。時間差のセルフエコーチェンバーをすることで、手紙が紛失せずに時間的経過と変容を享受できる確率を大幅に上げられる。

レイ・ブラッドベリ」の名前が本文中にも出てきているが、類似するのは『霧笛』の話であろう。霧笛の音を仲間の声だと思い込んだ恐竜が訪問して、音の発信源が燈台だと分かった恐竜は暴れだす。つまり「風の歌」とはまさに「完璧には伝達される事のない文章」の事ではないか。風の歌が心に与えられたヒントを思い出させ、「距離が近付いていく」と思わせる過程にある限りにおいて文明は維持される。

 タイムカプセルは風の影響を受けないように土に埋めるものだから、「風の時代」に則さないのかもしれないけれども、寂寥感を埋めるための「自己療養の試み」も必要であろう。今の自分自身は多くの人に届いて欲しいとか、反応をもらえるだとかはほとんど期待していない。Googleの広告枠は外しているし、変にバズっても身バレが怖いだけだ。それでも書こうと思っているのは未来の自分に対する誤配をまずは期待しており、次にほんの少しだけ他者を巻き込みたいと思っているからなのだろう。