また寝てた
3連休の最終日も結局のところで無為に過ごす。文学フリマをはじめとして普段なら行くようなイベントが目白押しだったのだけど、寝て起きたら17時。また寝てた。
誰も期待してないであろう「行けたら行く」が「行かない」に自動的に変わっていて、岡田斗司夫の『【後編】「イスラム国を支持する日本人がいるのはなぜ?」 - 岡田斗司夫の毎日メルマガ~解決!ズバッと [まぐまぐ!]』にあった「嫌われる勇気なんて持つ必要がない」という主張を思い出した*1。
デフォルトの態度として、ある程度、誰にでも親切にしておくといい。それを超えて何かやりたい人は、自分は積極的に関わればいいし、そうじゃなくて、嫌な人はなんか、親切にしてるふりをして、物忘れしたふりをすればいいだけなんだよね。
僕の場合は「嫌」「憂鬱」とも違っていて「行きたい」という気持ちがあるような予定ですら結果として辞退する事が多い。そもそもが仕事や外せない予定で埋まりがちだし、休暇時こそ娯楽や勉強や睡眠に充てておかないと心身がマズいことになる事を見越している。調子が良い時もあるので「ドタ参加」を許容してもらえると非常にありがたいのだけどね。
「嫌われる勇気」を発揮しているわけではない
行きたい気持ちがある予定ですら「調整できなかった」という事態になるのだから、その気持ちがない予定については自動的に「調整できなかった」になる道理だ。その結果として嫌われてしまうのは仕方がないけど、こちらとしては「嫌われる勇気」を持って疎外しようとしたわけではない。仕方なく漏れてしまうだけであり、「善行義務を満たしたが未達」という状態である。
つまり「家から出ない技術」を身につけて休息や学習時間に充てる優先順位を高めれば自ずと関わらなくなっていくのだから「嫌われる勇気」なんて必要なくなるのではないか。憂鬱なものから無感動かつ自動的に離れてしまう現状において、あえて「イヤな人」を演じる必要性がないのである。その事について勝手に「イヤな人」だと思う人もいるのだろうけど、実際に真面目系クズなので仕方がない。
「家から出ない技術」として、SkypeやHangoutの存在も大きい。ビジネス寄りのミーティングすら音声チャットでやることが多くなってきているので、わざわざリアルで会う必要性も減ってきている。都心部まで行くには時間が掛かるし、そもそも県外に住んでいる人もいる。
要は、嫌う勇気がないんでしょ
また「嫌われる勇気」以上に「嫌う勇気」が僕にはない。「愛情の反対は無関心」というけれど、確かに関心がなくなるだけだ。すぐに「そんな事に拘わるのは効率が悪い」と切り捨ててしまうので、敢えて「どうでもよい」と思わないことには相応の理由と勇気が必要となる。だから、そんなに強い関心を他人に裂いて生きていける人が羨ましくもある。
そこにあるのは、「僕はあなたを特別に嫌わないだろうけど、特別に好きになる道理もない」というデフォルトの態度設定だ。「非モテ」において「理不尽に嫌な顔されるのは悲しい」という気分は共有できるけど、「黙っていても告白されないから悲しい」という主張は頭がおかしいと思っている。
実際の関係性はもう少しフラットなものであり、「好かれる or 嫌われる」みたいに考えない方が「互いにちょっと親切にし合う」程度の関係性が増えていく。その関係者全員に対して全人格的に肯定する必要も、される必要もないだろう。それを超えたいと思う基準は「嫌われないか?」ではなくて「僕が好きか?」にしたい。
要は「勇気の問題」にする必要がない。
要するに「嫌う」とか「嫌われよう」とか思わなくても、フラットな気持ちで自分中心の優先順位を付けていけば自ずとキャパシティが溢れてしまう現状においては「勇気の問題」にする必要がない。そもそも敢えて「嫌われよう」なんて思わなくたって嫌われる事もあるんだし、殆んどは無関心である。
「忙」という漢字は「心を亡くす」と書くわけだけど、忙しさに心を亡くして「オレは涙をながさない。 ロボットだからマシーンだから」と呟きながら、カサブタだらけになった心を守って生き延びていくのである。今日も明日もスクランブルを回避しながら「だけど分かるぜ熱い友情」と言える日は来るのだろうかとも思うのだけれども。
*1:追記:この題名の本は未読なので字義どおりに捉えてます