太陽がまぶしかったから

C'etait a cause du soleil.

ヴァレリー『テスト氏』〜カイエの結晶を集合的無意識から採掘すること

ムッシュー・テスト (岩波文庫)

テスト氏

 「テスト」と聞くと、どうにも『テスト氏 (福武文庫)』を思い出す。教養コンプレックスだったときに読んだ本であり、僕が毎日書く事に改めてこだわり始めたのは、ヴァレリーの「カイエ」の影響もある。

 ヴァレリーは23歳から死ぬまで公表を前提としない「カイエ(=ノート)」を書き続けて、その量は26,000ページにもなっているという。「テスト氏」は、その結晶とも言えるキャラクターであり、彼の分身であると言える。序文には以下のように書かれている。

或る種の人々の特異性や、良いにせよ悪いにせよとにかく並外れた彼らの価値が、時として、それらを生み出した人間のほんの一時的な状態に由来するといったようなことも、結局のところ、ありえぬことではない。不安定なものがこのようにして伝えられ、なにがしかの生のみちを辿ることもありうるのである。それにまた精神界においては、これこそ、われわれの著作という機能であり、才能というはたらき、仕事の対象それ自体ではあるのではないだろうか、つまり、これこそ、自分が手に入れたもっとも稀有なものを自分の死んだあとまで存続させたいというあの奇妙な本能の本質ではないだろうか?

 大抵の人は仮に並外れた何かができたとしても、あくまで「一時的な状態」にすぎない可能性が高い。それでも、数をこなすことで時々はうまくいくパターンが蓄積され、それらを組み合わせる事で、ある程度は意図的に良いものが出せるようになる。

カイエのみで満足してしまうこと

 そんなに大袈裟な話でもないのだけど、「カイエ」のみで満足する状態を続けてるのも勿体無いのだろうとは思う。レミングスと化したミームに対しては多少なりとも哀悼の意を示したい。

 せっかく何かが閃いたのであれば、馴染みのある形にして、みんなのものにする作業も時には必要となる。集合的無意識から採掘し、加工し、流通させる。言葉がウィスキーに変質し、ダンス・ステップのように身体が自然に動く状態にするには、もっともっと形のない個人的な体験も必要となるのだろう。

ミームのひとり歩き

 僕自身も「フールペナルティ型ビジネス」などといった適当に作った造語が一時的に流行った記憶があるのだけど、その時に個体識別対象としての「私」は消滅していて、言葉のミームだけがひとり歩きしていた。既に「こういう感じ」という集合的無意識は出来ていた所を掘り出せただけであって「誰が書くか」は問題ではなかったのだ。

 コリン・ウィルソンは『吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)』以降のブラム・ストーカーは凡庸な作品しか書けていないと指摘している。「恐血鬼」というテーマが一種の集合的無意識の琴線に触れるようなテーマだったからこそ傑作になったのであって、書き手は代替可能な依り代にすぎない。依り代になる事に再現性があれば充分な才能と言えるのだけど、それは殆んどの人にとって難しい。

 1度出来たら次もできるし、2度目が出来たら3度目は絶対だ。絶対的な難易度と認知バイアス上の難易度はしばしば乖離する。2度目ぐらいのところから専業になってしまったり、過剰な期待に潰されれば、無理に再現性を作るために過激な体験に手を染めたくなるのは分かる。そんな時に、自身が個体識別されていないという当たり前の事実に気付くと気楽になったりもする。個人への蓄積は消えていくけれど、社会にとってのミームは残りえる。たくさんの回り道の腐葉土を溜めたカイエの結晶を少しだけでも作れたら良いと思ったりもする。